聖女、メイドの設定を知る
海から帰ってきた翌日。
平日とさほど変わらない時間に目覚めた俺は、ノワールの作ってくれた朝食をしっかりいただくと、白い上下のトレーニングウェアを身につけて庭に出た。
夏の日差しの下、木刀を両手で持ち、一心不乱に振るう。
たちまち汗が噴き出るが、運動でかく汗というのはなんとなく気持ちいい。何より、運動した後で浴びるシャワーの気持ちよさといったらない。
筋肉痛の心配もなし。
海の疲れか昨日は若干、身体が強張ってる感があったのだが、一晩寝たらすっかり治っていた。若いというのは素晴らしい。いや、元の俺もアリシアと二、三歳差程度なんだが。
トレーニングの時間は少しずつ増えている。
素養自体は十分ある身体なので、鍛えればそこそこにはなるだろう。
いずれはバイトでも雑魚敵くらいは殴り倒せたらいいと思う。朱華から「撲殺聖女アリスちゃん」とか言われない程度に。
「あんなの作れたら格好いいんだろうけどなあ……」
しばらく木刀を振るった後、一息ついた俺は昨日の夕食を思い返した。
『ピザとなりますと、設備や材料の問題も大きいので……』
料理について更なる奮起を誓ったノワール。
彼女が宅配ピザに対抗すべく作り上げたのは、ミートソースとチーズがたっぷりのラザニアだった。
器に入れて焼く料理なので家庭用サイズのオーブンでも割合作りやすいらしい。しかし、表面のこんがり焦げたチーズ、中のとろとろに蕩けたチーズ、ひき肉たっぷりの自家製ミートソース、それらを纏め上げて一つの料理とする生地の食感……ピザを食べ損ねた俺にとってはもうこれ以上なかった。
もちろんサラダやスープにも手抜かりはなし。
主食はバターの風味がしっかりと効いた、しかし全体としてはあっさりめに仕上げたリゾット。ラザニアも主食と言うべきかメインディッシュと言うべきか悩ましい料理なので、単品でも成立するこの料理を選んだらしい。そして、一緒に食べればお互いが補完しあって更なる味わいを見せてくれる。
朱華達も最初は「ピザ食べちゃったからなあ」という顔をしていたものの、いざ食べ始めれば我先にとラザニアに手を伸ばし始めた。
『お代わりも焼いておりますが、欲しい方は──』
『いります!』
全員、一斉に手を挙げたのは言うまでもない。
「ラザニアとか、家じゃそうそう作らないよな……」
自宅での独り言だからと、ついつい素の口調で呟く。
「ノワールさんはもう十分料理上手いと思う」
俺の母親はあまり料理が得意ではない。
前に「特別好きじゃないから研究する気が起きない」みたいに言っているのを聞いたことがある。その発言通り、母が作るのはいわゆる定番の料理が殆ど。あとはテレビで料理の紹介をやっているとそれのコピーがたまに出ては、気づくと食卓に上らなくなっている。
そこへ行くとノワールは料理が得意だし、好きなのだろう。
ただ、最初からノワールの客として呼ぶか、最低限の料理スキルを身につけないと俺が蚊帳の外になりそうな気がする……。
と。
「ありがとうございます、アリスさま」
麦茶を持ってきてくれたノワールが俺を見つめて微笑んでいた。
俺は「ありがとうございます」と言って麦茶を受け取りつつ、独り言を聞かれていた事に気恥ずかしさを覚えた。
壁に耳あり障子に目あり。独り言まで敬語の人間はなかなかいないとはいえ、俺の場合、つい男口調になってしまうので気を付けないといけない。
まあ、素の呟きが女口調になるにはまだまだ経験値が足りないのだが。
「ですが、メイドとして日々精進することは必須ですので」
ぐっと拳を握りしめるノワール。
男らしい仕草のはずなのに、細身の美人がやるとひたすらに可愛さだけが強調されるから恐ろしい。
「ノワールさんの言うメイドって『完璧超人』って感じですよね」
「メイドですから」
おっとりと微笑むノワールだが、間違いなく百パーセント本気で言っている。
「メイドとは主人に傅くもの。主人を襲うあらゆる危険や困難を排除し、主人の道行きをサポートすることこそメイドの務め。ですから、料理などは初歩の初歩。だからこそ手抜きは許されないのです」
「ノワールさんなら本当にできそうですね」
他の人間が言っていたら「何言ってるんだこいつ」と思うところだ。
よく見ると黒髪ではない類まれな美人の表情が若干照れたようなそれに変わり、「アリスさまはお上手です」という呟きが風に乗る。
「もちろん、アリスさまへのご指導もメイドの務めです。なんなら今日からでも始められますよ」
「ありがとうございます。でも、その。その時はやっぱりメイド服を着るんでしょうか?」
「はい。無理にとは申しませんが、見合った衣装を着るとやはり気分が引き締まりますので」
そう言いつつメイド服を着せたいだけなのでは、という気がしないでもないが、言っていることはわかる。
ネトゲキャラのコスプレしてまで気分を高め、決戦に臨んだのは他でもない俺だ。なら、家事だって同じことが言えるだろう。
さすがにメイドの格好は恥ずかしいが。
いや、シスターなら恥ずかしくない、っていうのも変な話か。前にも一部とはいえメイド服を着てるわけで、もう今更かもしれない。
俺はこくりと頷いて、
「わかりました。エプロンをつけるついでですもんね」
「ええ、その通りです。それに、アリスさまならきっとお似合いになるかと」
空を見上げて恍惚の表情を浮かべるノワール。
男が見たら勘違いしそうな光景だが、着飾った俺を想像しているだけだ。決していかがわしい想像はしていないはずである。
「アリスさま。何かお作りになりたい料理はございますか?」
「えっと、やっぱり定番でしょうか。カレーとか、オムライスとか、チャーハンとか?」
「かしこまりました。では、まずはそちらを目指して──」
ノワールが言い終わる前に玄関のチャイムが鳴った。
「はーい。……すみませんアリスさま。出てまいりますね」
「あ、はい」
庭にいる俺が応対してもいいのだが、公共料金関係とかセールスとかだとノワールを呼ばないといけない。二度手間になったら逆に面倒だ。
と言いつつ、庭で待機。
玄関から靴を履いて出てきたので、戻るには来客対応が終わらないといけない。
靴下で家の中に入るのは少しアレな気がするし。
「……あれ?」
そうしてしばらく待っても話が終わる様子がない。
どうしたんだろうか。
こっそり玄関の方の様子を覗いてみると、
「ですから、お帰りください」
「そこをなんとか、お願いします!」
客は、スーツ姿の若い女性だった。
スーツはそれなりの高級品だと思われる。すらっとした体型なので似合っているが、表情は「できる女」のそれというよりはどこか疲れているような感じがする。
知らない顔だ。
ノワール方は困っているような顔。というか、珍しく面倒臭そうだ。
押し売りか何かだろうか。あまり、というか全然セールスには向いていなさそうな人だが。
……どうしよう。
少し悩んだ末、俺は声をかけることにした。
「どうしたんですか、ノワールさん?」
「アリスさま」
困っているようなので話を打ち切るきっかけになればいい。
そう思ったのだが、俺の登場にノワールは安堵半分、困惑半分という微妙な表情をした。
「うわ」
一方のお客様は俺を見るなり顔をしかめた。
『……ええと、この家の子かな?』
「日本語で大丈夫です。それより、ノワールさんに何の御用ですか?」
言葉の通じないのが来た、と思われたのかもしれない。
英語で話しかけてきた彼女にそう答える。ちなみにリスニングが合っているかは定かでない。そう大きく外れてはいないと思うが。
台詞が少々つっけんどんになったのは、それで帰ってくれればいいな、と思ったからだ。
しかし、
「じゃあ、あなたからも言ってくれない? 私、この人にどうしてもお願いしたいことがあるの」
「お願い?」
もしかして政府の人なんだろうか。
ちらりとノワールを見ると、彼女は「違います」とでも言うように首を振った。
そしてその答えを肯定するように、
「私、この人の弟子にして欲しいの!」
「で、弟子?」
メイド志望なんだろうか。
だとすると、ノワールに弟子入りしたいというのはお目が高いというか、本当に大丈夫なのか心配になるというか。
「うん。昨日この人に会って、私は感銘を受けたの。この人みたいになりたいって。だから」
「……昨日」
昨日といえば、俺が海から帰ってきた日だ。
日中、ノワールは「悪い人達」関連の仕事で出払っていた。
ということは、
「住所は教えていませんが」
「それは、その。ハッキングをして住所を突き留めました。いきなり押しかけてきたのは謝りますから、だから」
「通報しましょう、ノワールさん」
「……そうですね」
「つ、通報!? 通報だけは!?」
悲鳴を上げた女性は、ノワールがスマホを取り出すよりも早く退散していった。
「あの人、昨日のお仕事関連の人ですよね?」
「……ええ」
シャワーと着替えを終えた俺はリビングでノワールと向かい合った。
笑顔の素敵な我が家のメイドは浮かない表情のまま、アイスティーの入ったグラスを手で包み込んだ。
「おとといから昨日にかけて、わたしが関わった組織の一員です」
組織ときたか。
まるきりマンガか何かの世界だが、世の中には本当にそういう人達もいるらしい。
「組織といっても、現代においては一般企業などに擬態していることが殆どなのですが。……彼女も表向きは企業に雇われている社員という扱いでした」
「なるほど。……でも、どうしてそれが弟子入りの話に」
「それは」
ノワールが目を逸らした。
不思議に思いつつも彼女の顔を見つめていると、しばらくしてため息をつき、
「わたしが、彼女の組織を潰してしまったので」
「え」
ちょっとした調査くらいだと思っていたら、まさか壊滅させていたとは。
「えっと、あの、一人でですか?」
「もちろん違います。専門の方と協力しあってのことです。……少々勢い余ってしまったのは事実ですが」
当初の予定はただの捜査だった。
禁制品の大量輸入をしているという証拠をつかむのが目的だったのだが、あと一歩というところで見つかってしまい、仕方なく立ち回りを繰り広げることになった。
組織の構成員、その大部分を叩きのめしたのは他ならぬノワール。
そして彼女は、
「その。つい気持ちが入ってしまいまして、お説教を少々」
「裏組織のメンバーに、ですか?」
「……ええ」
再び目を逸らすノワール。
組織の構成員については大部分が逮捕されたものの、末端の人間や、よからぬことへ直接関わっていたわけはない人間の中には証拠不十分として保留、または放置となった者もいる。
さっきの女性もその類らしい。
「悪事を働いて日銭を稼ぐ、という生き方が許せないと思ってしまいまして……つい、強い口調で一喝したのがいけなかったのでしょう。彼女はわたしを『姉御』などと呼んで弟子入りを希望してきたんです」
「……うわぁ」
なるほど、弟子というか舎弟のようなものだったのか。
組織の一員を多数叩きのめした女性だ。憧れるのも無理はない。そのノワールがメイド服を着ていたのにはきっと面食らっただろうが。
「もちろん断ったのですが……」
「あの人の認識も間違いではないですもんね」
彼女にはその戦闘能力以上に、裏社会の人間に憧れられる理由がある。
ノワールは遠い目をしてため息をつき、
「原作を読まれたのですね?」
「はい。途中までですけど……原作のノワールさんがどういう人なのかはわかりました」
「ええ。『黒』のノワール。それがわたしのオリジナルです」
押しかけメイドのノワールにはある秘密があった。
それは、彼女がもともと、積層都市のトップ『六女帝』に名を連ねていたというものだ。
それぞれが得意分野を持ち、分担して積層都市を治めていた六人の女達。ノワールの担当は裏社会。ドラッグ、売春、暗殺といった影の分野を支配し、管理するのがノワールの役目だった。
当時のノワールは冷徹で、人を人とも思わないところのある、まさに『女帝』だったが──そういう自分に嫌気がさした彼女は地位から退き、一介のメイドとなった。
殺し屋を束ねる女が弱いわけがない。
原作のノワールの姿と力を手に入れたノワールもまた、銃器や刃物の扱いに長けている。
組織を壊滅させられたのだから恨みを抱いてもいいところだが、壊滅させた当人が格上の同業者なら話は別だ。
彼女を頭として組織の再興を企んだり、そうでなくてもその能力にあやかろうとしてもおかしくない。
「……ですが、わたしの気持ちはオリジナルと同じです。わたしはただメイドとして生きていきたい。彼女にもそう伝えました」
「そうですね。ノワールさんにはその方が合ってると思います」
そこで俺は首を傾げて、
「ただ、あの人、また来る気がするんですけど」
「……そうですね」
案の定、あの女性は次の日にもまたやってきた。
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