聖女、レッスンを受ける(前編)

「早急に改善しないといけないと思うんだよー」


 シルビアが言ったのは、六月も後半にさしかかったある日の夕食時だった。

 朱華、シルビア、教授が平日日中外に出ているせいか、全員集まるのは朝と夜だけ。朝食の時だと慌ただしいし、休日は休日で部屋に籠っているメンバーが多いため、全員での相談は大抵、夕食で行われる。

 俺も含めみんな慣れているため、いきなりの発言にも特に驚くことはなかった。


「改善するって、何を?」

「アリスちゃんの言葉遣いを」

「あー」


 研究以外無関心なシルビアが何を言うかと思えば、俺にとって面白くない話だった。

 相槌のような、そうでないような声を上げて視線を逸らす。

 このまま誰も反応しなければ話は流れるはず。


「ああ、それね。あたしも思ってたのよ」

「この裏切り者が」

「なに言ってんのあんた?」


 胡乱げに睨まれてしまった。

 燃えるような紅い瞳にも慣れてきてはいるものの、きつい視線を向けられるとどうしてもびくっとしてしまう。

 そんな反応に気づいているのかいないのか、朱華は箸をぴこぴこと振って言ってくる。

 ちなみに、この日のメインは豚の角煮。他の品々も含めて和風のラインナップだ。


「だって必要でしょ。うち女子校なんだから」

「……今からでも共学に入れないかな」

「できるわけがなかろう」


 教授が小さな手で茶碗と箸を器用に扱いながら呆れ声を出した。


「話を通すのが簡単だから、と選ばれた学校だぞ? それから、言葉遣いの矯正が必要なのは『女子校だから』というよりは『アリスが女子だから』と言った方が正しいな」


 男言葉を使う女子は共学でも女子校でも悪目立ちする、という話だ。


「まあ、似合っていれば話は別かもしれんが……」

「アリスがやっててもぶっちゃけ『日本語教わる相手を間違えたんじゃない?』って感じよね」

「なるほどな……」


 自分の身に置き換えればわかる。

 今の俺のような金髪美少女に道で声をかけられたら確実に動揺する。だがもし、その子が男口調で喋り出したら、「変な奴に絡まれたな……」と別の意味で困惑するだろう。

 仕方なく、俺は溜息をついて頷いた。


「わかったよ。練習すればいいんだろ? でも、あと十日もないのに身に付くと思うか?」


 できれば転入時期を遅らせたい。

 いっそのこと二学期でもいいのではないかと思うのだが、


「あの、アリスさま。わたしとしても転入は早い方がいいかと」

「? どうしてです?」

「そりゃそうでしょ。あんた、夏休み明けて『久しぶりー!』っていう空気になってるクラスに一人で馴染める自信ある?」

「ないな」


 休み中、一緒に遊びに行って仲良くなる生徒も多いだろう。

 ただでさえ中三という特殊な時期の転入なのに、更に条件を悪くするのは自殺行為だ。

 と、教授が俺を勇気づけるように笑って、


「何も完璧にできる必要はない。最低限できていれば後はおいおい慣れて行けばよい。学校に行けば『自然な振る舞い』のサンプルはいくらでもいるのだからな」

「……この口調と顔で大学教授やってる人が一番変だもんねー」

「うるさい、そこは放っておけ!」


 どうやら、何が何でも口調を改善して七月に転入しないとならないらしい。

 黒幕がいるならさっさと出てきてくれないものか、と切実に思ったが、そう簡単にうまくいくはずもなく、俺は皆から「簡単な女の子レッスン」とやらを受けることになった。







■レッスン1:ノワールの場合


 平日昼間のリビングでノワールと二人、テーブルを挟んで向かい合う。


「先日は難しく言いましたが、自らを女性らしく見せるのは難しくありません。だって、アリスさまはどこからどう見ても可愛らしい女の子なのですから」


 言って微笑むノワールは、この家の中でもダントツで女らしい。

 清楚で気立てが良く心優しい彼女に「可愛い」と言われると「俺は男だ」という反発心の他にむずがゆいような気持ちもこみ上げてくる。

 むずむずと落ち着かない気持ちになりつつ、俺は頼りになるメイドの顔を見つめて、


「じゃあ、俺は何をすればいいんですか?」

「はい。最初はその、自分のことを『俺』というのを止めてみましょう。一人称というのはわかりやすく性差が現れる部分ですから」


 男なら「俺」や「僕」、女なら「私」や「あたし」など、日本語においては「自分」を表す言葉が数多く存在している。

 公の場だと男も「私」と言うことが多いらしいが、高二だった俺にとって「私」といえば女が使う一人称という感じだ。


「『俺』を『私』にするなら簡単でしょう?」

「結構ハードだと思いますけど……でも、やってみます」


 一番大事な部分だからこそ難しいと見るか、細かいところを言われないなら楽、と見るかだ。

 ノワールは「よく言ってくださいました」と頷いて、レッスンを開始する。


「では、私の言う通りに復唱してみてください。『私の名前はアリシア・ブライトネスです』。はい、どうぞ」

「わ、私の、名前は……っ」


 ちょっと待て。

 これ、滅茶苦茶恥ずかしいぞ。

 英語の授業かと言いたくなるようなコテコテの例文は置いておくとしても、単に自己紹介をするだけでこんなに恥ずかしくなるとは思わなかった。

 顔が真っ赤になっているのを自覚しながら「うう」と呻いているうちにノワールから「もう一度」と指示が飛ぶ。


「『私の名前はアリシア・ブライトネスです』」

「私ノ名前ハ、アリシア、ブライトネス、デス」

「最後まで言えましたね。でも、片言になってしまっています。今は抑揚に気を遣わなくても構いませんから、普段通りに話してみましょう?」

「は、はい」


 ノワールのレッスンは決してスパルタではなかったが、俺がすらすらと例文を言えるようになるまでひたすらリピートを要求された。

 それでも、家のリビングで自己紹介(日本語)の練習を繰り返すうちにだんだんと「私」という一人称にも慣れた。あるいは「もう何回も言ったんだからあと何回言っても同じだろ」といった諦めの境地に達しただけかもしれないが。


「初めまして。私の名前はアリシア・ブライトネスです」

「はい。もう大丈夫そうですね」


 努力の甲斐あって、練習を初めてから二、三時間後、とうとうOKが出たのだった。

 にっこり笑顔のノワールに苦笑を返し、俺は安堵の息を吐いた。

 すっかり冷めてしまったお茶を飲み干すと、ノワールが温かいものを淹れてくれる。


「これで、とりあえずは大丈夫なんですよね?」

「はい。あとのレッスンはシルビアさんや朱華さん、教授にお任せしたいと思います」

「あ、まだあるんですね……」


 今回のレッスンだけで精神力をかなり使ってしまったのだが。


「俺、最後までやりきれるでしょうか」

「アリスさま。『俺』になっております」

「……私、最後までやりきれるでしょうか」


 言いなおしながらあらためて不安になってきた。

 遠い目をする俺にノワールの静かな視線が向けられる。もしかして、呆れられてしまっただろうか……と思っていると、我が家自慢のメイドは優雅な仕草で立ち上がると、俺の座っている椅子へと回り込んできた。

 椅子の背もたれ越しに柔らかな腕が回される。


「の、ノワールさん……?」

「お疲れさまでした、アリスさま。『自分』を変えていくのは、とても恐ろしい作業ですよね。わたしにも経験がありますので、少しはわかるつもりです」


 呆れられたなんてとんでもない。

 ノワールが与えてくれたのは優しくて温かい言葉だった。

 年甲斐もなく、男らしくもないが、瞳からじわりと涙が浮かぶ。


「……ありがとうございます」


 後ろから優しく抱かれたまま、頭にノワールの手のひらが乗せられるのを感じる。

 思えば、頭を撫でられたのなんていつ以来だろうか。


「今日はよく頑張りました。ゆっくり休んで、次のレッスンに備えましょうね」

「はい」


 力強く頷いて決意を新たにする。

 そうだ。この程度でくじけていられるか。


「こうなったら最後までやり遂げてやります」

「その意気です」


 なお、帰ってきた朱華達に今日の成果を自慢したところ、笑いを堪えるのに必死といった様子で「よく頑張ったね」と言われた。

 やっぱこいつら、面白がっているだけなのでは……?




■レッスン2:教授の場合


 翌日、起きて洗面所へ向かうと、家の中が様変わりしていた。


「あれ、なんだこの鏡?」

「良いだろう。吾輩が昨夜のうちに設置したのだ」


 教授が胸を張って答えてくれたように、変化の原因は階段の踊り場や廊下、トイレの扉裏などに設置された鏡だった。

 別に「魂が吸われる」とかわけのわからないことを言うつもりはないが、洗面所とかそういう場所以外で自分の姿を見せられると一瞬ぎょっとする。


「なんで急にこんなものを?」

「もちろん、お主の特訓のためだ。吾輩は日中、レッスンに付き合ってやるのが難しいからな」


 いわく、これらの鏡は俺が自分の姿を意識するための措置らしい。


「お主は人目に無頓着だからな。代わりに自分自身の目を気にしてもらうことにした。自分で見て『だらしない』と思えば少しは気をつけるだろう」

「そんなに上手くいくかな」

「やってみればわかる。それに、上手くいかなくとも姿見が物置に放り込まれるだけだ。余ったら一つやろうか?」

「いや、いらない」


 いらないと言ったのに「いや、やはり部屋にも置いた方が効率的だな」と無理矢理運び込まれた。

 大きめの、ほぼ全身が映る鏡だ。


「なんか女子の部屋みたいだな」

「女子の部屋で合っているだろうに」


 それはそうなんだが、落ち着かないんだよな……。

 しかし、教授は気乗りしない俺のことなど放置し「健闘を祈る」とか言って大学に出勤していってしまった。


 仕方ないので教授の作戦に付き合う。

 といっても特別なことはしない。「私」と言う訓練がてらノワールと何気ない話をしたり、木刀とジャージでトレーニングをしたり、新しく通うことになる学校のパンフレットを流し読みしたり、普通に生活を送るだけだ。

 集中して何かをしなくていい分、ノワールのレッスンより楽かもしれない。


 ……と、思ったのだが。


「うお……!」


 トレーニングを終えて家の中に入った俺は、玄関近くに設置された鏡を見て面食らった。

 金髪碧眼の可愛い女の子がジャージ姿で、かすかに髪を乱れさせ、片手に木刀を下げている。頬や首筋には汗が浮かんでおり、肌は軽く上気した状態だ。

 似合わない。

 野暮ったい格好がアリシア・ブライトネスの魅力をこれでもかと損なわせている。どこかのおっさんにでも身体を乗っ取られているんじゃないか、と言いたくなるような有様だ。


「お疲れさまです、アリスさま。一応、お風呂の準備をしておりますが──」

「あ、はい。入ります」

「あら。それは良かったです」


 珍しい、という顔をするノワールに何と言っていいかわからず「ありがとうございます」とだけ言い、着替えを持って洗面所へ向かった。

 洗面台の大きな鏡を見れば、アリシアはどこか浮かない顔をしていた。


「……もう少し、格好にも気を遣うか」


 ジャージのファスナーを下ろしながら溜息。

 こんな風にして、教授のレッスンは幸か不幸か、十分な成果を挙げることになった。


 朝食の後、ふと鏡を見て寝ぐせが気になり。

 スカートの裾がくしゃっとなってるのを見て「みっともないな」と思ったり。

 靴下が左右で違うことに昼頃気づいて「言ってください!」とノワールにお願いしたり。


「どうだ、吾輩の無駄のない作戦は」

「効いたよ。効いたから、そろそろ鏡を撤去してくれないか?」


 二日が経つ頃には、俺の振る舞いはかなり改善されていた。

 あくまでも俺の主観での話なので、傍から見たらまだまだなのかもしれないが、最低限でいいんだったら今までの分だけでいいだろう。

 しかし、教授は腕組みをして首を振り、


「今、鏡の数を減らしたらお主、じわじわ元に戻るだろう?」

「ああ」

「胸を張って言うな! ……とにかく、レッスンは次に移行してもらうが、鏡はしばらくそのままだ。代わりに、無事転入できたらいいものをやる」

「いいもの?」

「それは貰ってのお楽しみだ」


 にやりと笑った彼女の姿に期待をしたかと言えば、正直、半信半疑といったところだったが──宣言通り、教授は後日俺にプレゼントをくれた。

 さりげない装飾の施された、品の良い手鏡。

 どことなく可愛らしさもあり、アリシアの容姿にはぴったりの品だったが、ここで更に身だしなみを要求してくるあたり確信犯(誤用)だろう。


 とはいえ、せっかくの貰い物なので有難く使わせてもらうことにした。

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