第九章【縁】3

 私は、松明たいまつに掛けていた手の力が抜けた。同時、情け無いことにその場にへたり込んでしまった。そんな私に灰色と朽葉が声を掛ける。灰色は先程と同じように、中に戻れと。朽葉も似たようなことを言ったかもしれない。最早、二者の声は揺り籠の遠くから聞こえて来ているようで、私の内耳ないじには正しく届いていなかった。中に戻る? 中に戻ってどうしろと? 華が死んだ? 何故?


 混乱する私に、再度、二者が声を降らせる。それでも私の思考は止まらず、立ち上がることは叶わなかった。二者の声より遥かに大きな声だった、私の思考を止めたのは。そう、見るのも恐ろしい、目の前の化け物の声だった。


「教えてやろうか。お前は悲しむ必要など無いのだよ。お前は一度、失っている。それをまた失っただけさ。それも魂の残骸のようなものを。そうさ、悲しむ必要など何処にも無いのさ」


「黙れ!」


 灰色が叫んだ。それでも化け物の声は止まない。


「お前は正しく振り返れない。いや、お前に限らず、此処に来たものは正しく振り返ることなど出来はしない。お前が華と呼ぶ奴すら、無駄だった。禁忌だと知ってか知らずか、草紙を出すのだと言って、何か書き留めていたようだがな。そんなものは塵芥ちりあくた同然だ。此処で大切なことは忘れることさ。受け入れることさ。お前は私の言う通り、菓子商店で働いていれば良かったのだ。そうすれば、無駄な希望を囁かれることも無かった。そいつらが何を言った所で、所詮は失った者の言葉。何にもなりはしないさ」


「僕達は……」


 朽葉の声が、ささやかに響く。それを引き裂くようにして化け物が言う。


「華とやら。確かにおいしく頂いた」と。


 私は涙も忘れて足元の地面を見るとは無しに見ていた。


 途端、先程に聞いた女性の細い悲鳴のような声が聞こえた。私が気怠い気持ちで、それでも引き摺られるようにして私が顔を上げると、其処には既に猩々緋しょうじょうひの山のような姿をした化け物はいなく、代わりに、菓子商店の女店主の姿があった。いつか見たように、あでやかな着物、朱い紅をして。その唇は三日月型に笑みを刻んでいた。


 理解が追い付かなかった。消えて――おそらく死んでしまった華。そして猩々緋の化け物の代わりに現れた女店主の姿。これは何を意味するのか。その私の疑問をまるで汲み取ったかのように、女店主が口を開いた。


「可哀想に。自らの名も忘れ、故郷も忘れ、こんな異郷に辿り着くとはな。だが、お前が初めてじゃない。悲しむことは無いさ。そう、お前の目の前で死んだ、春野華もそうさ」


 するとかんはつれずに朽葉が怒鳴るようにして言った。


「嘘を言うな!」と。


「嘘なんかじゃないさ。確かに春野華という人間は先程まで此処にいた。いや、人間だったもの、という言い方をした方が良いのだろうかね。彼女は良い店員だったのだがね。惜しいことをしたさ」


「思ってもいないことを」


 今度は灰色が淡々と告げる。


「いいや、本当さ。彼女は良い店員だった」


 だった、を強調するように女店主が言う。


「だが、踏み込む領域を間違えていたようだね。彼女の書き留めていた話。あれは現世うつしよと繋がる扉を開こうとしていた。脅威でもあったのさ。ただ、本当に良い店員だったからねえ。私も悩んださ。其処の男のことを除いても損と出るか得と出るか、思案していたのさ。まあ、結果的にはこのようなものになったが。仕方の無いことだね」


 私は、その言葉に立ち上がった。


「何が仕方無い! 何が仕方無いんだ! 何故、華がお前の都合で死ななければならなかったんだ! お前が何者であろうと、どうでも良い。今すぐ華を元に戻せ!」


「それは出来ない相談だね。幾ら此処が幽世かくりよとしばしば呼ばれる場所であったとしても――死んだ命を元に戻すことは無理さね。お前さんの世界でもそうだろう? 死んだ人間が生き返ることがあるかい?」


 死んだ。その言葉が、何度も胸に突き刺さる。


「お前が華を殺したのか」


「まあ、結果としてはそうなるかねえ。だが、遅かれ早かれあの子は死の道を歩んだだろうよ。彼女は生を忘れていなかった。忘却の川に身を浸しても尚、自分が生きていた頃の思い出とでも呼べるものに縋っていたね。だから書き物などしていたのだろうが……最早、どうでも良いことさね」


「どうでも良くなんかない! 華は……!」


 其処からは言葉にならなかった。華が目の前で死んだ。喰われた。そればかりが頭の中を巡り、廻り、私の理解の及ばない所に辿り着く。本当に、本当に華は死んだのか。そんな私の感情が顔に出ていたのだろう。そっと朽葉が私に手を置いた。灰色は私の顔を、ただじっと見ていた。


「私は、そろそろ帰るとするよ。これでも忙しくてね。ただし、灰色。朽葉。これ以上、その男に力を貸すなら此方にも考えがある。ゆめゆめ忘れないことだね」


 かつん、塗下駄ぬりげたを鳴らして女店主は私達に背を向けて歩き出す。町一番の菓子屋へと。私は赤い着物を着た禍々しいその女店主に、もう何も言うことが出来なかった。


「家へ、戻ろう。此処は、君の本当の家では無いけれど。中に入ろう。もうすぐ君は、元いた場所へ帰れる筈だ。勘だけどね。灰色の話によると、君は菓子商店の菓子を二度しか口にしていないのだろう?」


 朽葉の問い掛けにただ私が頷くと、ほっと溜め息のようなものが朽葉から洩れた。


「それなら、まだ機会はあるんだ。君が此処に来てからの日数も鍵になっている。君は、まだやり残したことがある筈だ。色々と整理し、思い出してほしい。僕達も協力する。ね、灰色」


「ああ、無論だ」


 両者の言葉を受けて私は危惧を覚える。


「だが……先程、女店主も言っていたが、お前達が私に協力することは危険なのでは」


 ふる、と朽葉が首を振る。


「良いのさ。女店主の言っていたことも強ち間違いじゃない。僕は――僕達は、君を救うことで自分が救われたがっているだけの、ただのエゴイズムで動いているだけかもしれないんだ。それでも信じてほしい。君を助けたいのは本当だ。もう菓子商店には近付かない方が良い。仮の家にも戻らない方が良いだろう。食事などは此方で用意する。それに、おそらくもうあまり時間が無い。君が此処に来て何日になる?」


「十二日だな」


 朽葉の問いに、私は、はっきりと答えた。先程に思い出した数字だ。


「そして先程の猩々緋しょうじょうひの化け物との遭遇。これで何度目?」


「三度目だな」


「前にも話したけれど、此処では最小の完全トーティエント数が重要な意味を持つんだ」


「反転、現実化、だったか」


「そう。だから僕と灰色は君が化け物と遭遇してほしくなくて家にいるように言ったんだ」


「……すまない」


 其処に灰色が言葉を挟む。


「いや、どの道、無駄だったかもしれんな。化け物が此処まで来たということは。もうこの男に狙いを定めている証拠だ。菓子商店で働く誘いも受けたことだしな。それは断ったが」


「狙い? 私も喰われるということか?」


「いや、現実化だ。お前が此処で生きていかねばならなくなるということだ。まあ、此処に存在することが生きていることになるのかは、私にも分からないが」


 少し自嘲気味に灰色が話す。そして続ける。


「朽葉の言う通り、まだ機会はある。お前は自分の何かやり残したこと――何か引っ掛かることを探すんだ。ただ、あまり時間は無い。急ぐことだ。正しく振り返ることだ」


「さあ、中に入ろう。僕は松明たいまつを片付けて来るから」


 そう朽葉は言い、灰色から松明を受け取ると家の裏側にふよりと飛んで行った。灰色は家の扉を開け、まるで私を待つような仕草をしてみせた。その何処か人間らしい所――そして、今までに聞いた話を合わせて考える。朽葉と灰色はかつては人間で、何かのきっかけで此処に迷い込んでしまい、帰れなくなってしまったのかもしれない――と。だが、私がそれを両者に言うことは無いだろう。それは、残酷な刃のような現実に思えたからだ。


 私は礼を言い、家――貸し本屋の中に入る。灰色が続き、やがて朽葉が戻って来た。施錠をして、私達三者は眠りに就いた。

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