第九章【縁】2

 夜、日付の変わる少し前、私達は囲炉裏を囲んで、ただその小さな火を見つめていた。


 私と灰色は、以前のように此処に泊まることになった。今日を越えれば、私が貸し本屋で働き始めて三日目を終えることになり、朽葉の話では、私は置かれている状況を理解する筈で、かすみの懸かった頭も晴れるということだった。それは私としても願ったり叶ったりだ。


 だが、私の心情とは裏腹に、灰色と朽葉はほとんど言葉を発さず、雰囲気が重い。もう数刻はこうしているが、聞かれたことと言えば、「寒くない?」と「喉、乾いた?」くらいだ。いずれも朽葉によるもので、灰色に至っては無言だ。灰色が言葉少ななのはいつものことだが、心なし、その表情が固かった。


 今日は確かに三という数字を越える日で、大事な日なのかもしれないが、そのように厳しい顔付きをするようなものなのだろうか。私としては、自分の記憶か何かしらが得られるものと思い、少なからず喜ばしく思っているのだが。


「女店主の言葉を覚えてる?」


 不意に沈黙を破り、朽葉が私に話し掛けて来た。その朽葉という名前と同じ色の瞳をしばたたかせ、私をじっと見る。


 女店主は様々なことを言っていたので、正直、どのことを指しているのか分からず、私は問う。


「どの言葉のことだ?」


「此処ではえにしが大切だ、っていう」


「ああ、そういえばそんなことを言っていたが。どういう意味なんだ?」


「此処では――この町では、おそらくほとんどのことが縁で繋がっている。僕も、決して詳しいわけじゃない。ただ、長い間、此処で色々なものを見て来てそう思ったんだ。君は菓子商店で二度、話をしているよね。それはきっと、君自身に深く関わることだ。そして此処に来ることになったきっかけすら、含んでいると思う。それから、君は春野華という人のことを気にしていたね。それも、縁だ。君と全く関係の無い人物では無いと思う。そういうことが、もうすぐ少しでも君に伝わる筈だ」


「伝わる?」


「うん。何処か、遠い所から。もともと君が持っていたものが、少量でも、もうすぐ返される。ただ――」


 その時、ずずず、という、何か重たいものを引き摺るような音が聞こえた。


「来たな」


 灰色が、言う。


「うん」


 朽葉が、返す。


 二者は座布団に着けていた身をふわりと浮かせ、周囲を窺うように両目を動かした。ずずず、ずずず、という音が、一定の間隔を置いて繰り返される。私は、この音をいつかに聞いたことがある気がしていた。


「来たって、何が来たんだ?」


 私の質問に対する答えは無く、二者は互いに頷くと、灰色は玄関扉の方へと飛び、朽葉は私の真横に移動した。その間も、重い音は続いている。私は少々、空恐ろしくなり立ち上がろうとした。それを、朽葉に制される。


「動かないで。静かにしていて」


 押し殺したような声に、私は起こし掛けていた膝を元に戻す。がらり、と玄関扉が開く音がした。灰色が表に出たのだろうか。重く不気味な音は、気のせいでなければだんだんと近付いて来ているように思えた。何者かが、此方に来ている?


「朽葉」


 私が小さく名を呼ぶと、目だけで朽葉は応えた。


「私は、この音を聞いたことがある気がする。この町で。そして、それは確か、ひどく不気味で禍々しくて、およそ人の踏み入れられる領域のことでは無かった気がする。はっきりとは覚えていないのだが、私はそこで、見てはいけないものを見てしまったような……」


 朽葉は黙して答えなかった。


 代わりに、


「此処にいて」


 と言い残し、玄関扉を開けて表へと出て行ってしまった。


 重たい何かを引き摺るような、ずずず、ずずず、という音は、確かに近付いて来ていた。私は冷や汗が滲むのを感じる。大の男が情けないと思われるかもしれないが、私は得体の知れない恐怖から心細さを感じ、灰色、朽葉、と小さく声に出して呼んだ。答える声は無く、その間も不気味な音は続いている。しかも、大きくなって来ている。近付いているのだと明らかに分かる。


 灰色と朽葉は外へと行ってしまったが、大丈夫なのだろうか。私は、此処で何をしたら良いのだろうか。そもそも音の正体は何なのだろうか。そんなことが一度にぐるぐると頭の中を何度も何度も駆け巡り、私は少し気持ち悪さを覚える。


 その時、不意に高く細い鳴き声のようなものがした。それは女性の叫び声を凝縮し、糸の形にしたような、何処かさびしく、だが、空恐ろしいものだった。動物の声では無い。およそ、この世の生き物では無いと思われる鳴き声だった。


 そして、重たく鈍い音は止まった。私の勘違いで無ければ、音はこの貸し本屋の前で止まったように思える。私は凍り付いたようにして、ただ其処に座っていた。いつの間にか下を向いていたのだろう、両膝の上で握り締められた自身の両の拳が目に入る。此処にいて、と言った朽葉の声が心の中で飽和するように繰り返された。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。四半刻しはんときは経っていないように思えるし、それ以上の時が経過したようにも思える。未だ、灰色も朽葉も帰って来ない。あの重たく、何かを引き摺るような音も聞こえては来ない。ということは、その生物とも何とも分からない何かは、まだ貸し本屋の前にいるということではないだろうか?


 私はゆっくりと立ち上がり、玄関扉の方を窺った。其処で、私は息を飲む。煌々こうこうとした二つの火に照らし出された黒い影。それは扉より遥かに大きく、上が見えない、巨大な何かであった。二つの火は、おそらく松明たいまつであろう。そして、それが生み出す影から、持っているのは灰色と朽葉であろうということが分かった。


 私は思わず、一歩を踏み出す。同時、朽葉の言を思い出す。だが、私は彼らが心配だった。そして、巨大な影に恐怖を抱きつつも、負の好奇心を覚えていた。


 私は、これを見たことがあるのだ。そうだ、僅かながら覚えている。借り宿としている自室の明かり取りの窓から、金色こんじき猩々緋しょうじょうひの色彩を見たことがある。そして、いつかにも灰色と朽葉と共に遭遇したことがある。私は記憶を辿る。一人、明かり取りの窓からそれを見た時、激しい赤の中にある輪郭を見極めようと、目を凝らした覚えがある。結局、明確に認識することは叶わなかったが、私はもう二度も、この「何か」に遭遇しているのだ。


 二度。その回数が引っ掛かる。此処では、三という回数が重要視されている。そう、朽葉に聞いた。


 ――振り返れ。


 どきりとする感覚を伴って、灰色の言葉が脳内で反響する。それは、今までになく強く響き、私の心の真ん中に落ちた。


 私は、未だ動かない三つの影を見ながら、思い出そうとした。何を思い出そうとしているかは分からない。だが、思い出したいことがある。それだけは、はっきりと分かった。焦燥感が火のように私に滲む。思い出せ。私はこれまで、こんなに簡単に物事を忘れる性質では無かった筈だ。此処に来てから何かが狂い出してしまっている。思い出せ。


 私は知らず、玄関扉に近付いていた。恐怖で目を閉じてしまいたいという心情と、全てを見極めたいという心情が葛藤し、結果、私は目を見開くようにして此処に存在していた。あと数歩で扉に手が届くという時、私は以前、朽葉に言われた言葉を正しく思い出した。


 ――三は最小の完全トーティエント数。まあ、それ自体にはあまり意味は無い。完全云々は三という直接の呼称を避ける為に用いているだけなんだ。言わば、忌み名や隠し名のようなものだね。それで、三という数字には古来から様々な意味があってね。たとえば、物事の成り立ちとか物事が複雑化する象徴であるとか。色々な捉え方がある。此処では特に、そういう意で使われているんだ。つまり、物事の成立、或いは複雑化。或いは、反転。


 ――反転?


 ――そう。もしくは現実化。この町では三という数字、回数が極めて重大な位置にある。君がそれを手にしてしまうと、君はもう此処を現実にするしかなくなるんだ。僕らのようにね。


 その記憶の中で、幾つかの単語が私の中で拾い出される。三。成立。複雑化。現実化。私は、この扉を開けて金色の化け物を見れば、それは三度目の遭遇になる。朽葉の声が頭の中で再び響く。


 ――君がそれを手にしてしまうと、君はもう此処を現実にするしかなくなるんだ。


 だが、私は足を進めた。直感と言っても良い。この扉の向こう側に、私の求めていた解があるような気がした。


 思えば私は、灰色に助けられ、朽葉に導かれ、今日までを過ごして来た。何処とも知れないこの町で、私は生きて来られた。菓子商店で三度、自らの話をし、三度、其処の菓子を口にすることは危険なことで、もう引き返すことの出来ないことになるのだと、はっきりとでは無いが二者に教えられた。とても感謝している。


 しかし、私はもう教えられ、待つだけの身でいることはしたくなかった。灰色も朽葉も、自らの身を危ぶめてまで私に真実を語り、体を張って私を守ってくれた。今も、そうだ。二者は松明たいまつを掲げ、家屋の外にいる。私は家屋の中にいる。安全と思しき、家の中に。


 私は扉に手を掛けた。もしかしたら、金色の化け物と三度の遭遇を果たすことで、私はもう帰れなくなるのかもしれない。私は自分の名も故郷の場所も忘れてしまったが、それでも帰りたいと思う。その願いを、今、自分の手で壊そうとしているのかもしれない。


 けれど、私は自分の目で確かめたい。金色の化け物が、何であるのか。そして、胸に引っ掛かる棘のような予感の正体を。心を決め、私は思い切って扉を開けた。


 其処にはそれぞれに松明を掲げ、宙空に浮かぶ灰色と朽葉の姿があった。そして、金色の毛に包まれた、山のように巨大な生物と思しき何者かの姿も。


 私がそれに呆気に取られていると、


「何故、来た!」


 と、灰色が大きな声で怒鳴るように言った。


 だが私はその怒声よりも、目の前を埋め尽くすようにして広がる風景――いや、化け物に目を奪われ、ただ立ち尽くすばかりだった。そして、思い出して行く。ああ、やはり私はこの化け物に出会ったことが二度、あるのだ。これで三度目の邂逅なのだ。だが、今までと違う点――いや、一度目の邂逅の時、確かこれに似た様子を私は見ている。明かり取りの窓の隙間、私はこの化け物を確かに見、金色の毛が裂かれるように割られて、その中の猩々緋しょうじょうひが溢れんばかりに禍々しく私の目に映ったことを覚えている。そして其処に、何かの輪郭が幾つか見えたことも。


 私は、一歩、踏み出す。恐ろしく思いつつも、私は手を伸ばす。其処には私の知る人物がいたからだ。


「何をしている! 戻れ!」


「近付かないで!」


 最早、灰色の声も朽葉の声も、私の耳を擦り抜けて行くだけだった。強く尖った両者の声は私を止めるには適わなかった。


「春野、華……」


 猩々緋しょうじょうひの中心、其処には春野華がいた。まるで化け物に取り込まれるようにして両腕と両足の半分近くは猩々緋の中に埋まり、体も所々、血のような赤の中に沈んでいた。それはまるで血の海の中を漂っているようにも見えた。松明たいまつに照らし出された彼女の顔色は蒼白で、生きているのかどうか分からない程、生気が無かった。両目は力無く閉じられ、青白い唇は何も語らなかった。


 私は彼女の名を呼んだ。それでも反応が無い。化け物の中、猩々緋の断面はそんな彼女と正反対のように、生きているように、力強く脈打っていた。諸処に血管のようなものが見え、それは猩々緋の全体と同時に呼応するように心臓の鼓動の如きものを刻む。


 私は更に足を踏み出し、三度目になる、春野華の名を呼んだ。


「華!」


 それを阻むように、灰色と朽葉が松明を交錯させ、私を止める。少し、火の粉が散った。


 私は思わず灰色の肩辺りに手を掛け、食い掛かるように尋ねた。


「これはどういうことだ! 何故、彼女がこんなことになっている! この化け物は何だ、一体、一体……!」


「落ち着け!」


「これが落ち着いていられる状況か! 何故、この化け物は此処に来た! 私が目当てか? ならば私を喰えば良い!」


「落ち着いてよ! 君は帰るんだ、君の帰るべき場所に。正しく振り返るんだ。思い出せる筈だ。これは悪夢なんだよ。君には君の正しい場所がある」


 その時、ずっと沈黙していた化け物が言葉を発した。それは地を揺らすような、地の底まで響くような、おどろおどろしい声音だった。


「悪夢とはうまく言ったものだな、朽葉。だが、これは夢では無い。此処に来た人間が、正しく振り返ることなど出来はしないさ。灰色やお前の手助けは意外だったが、どうせ自分を重ねているのだろう? 結局、名も故郷も忘れ、正しく振り返ることが出来ず、姿を変えてまで此処に留まることしか出来なかった自分達を。この人間を助けることで、自分が救われた気になりたいのだろう? 私には手に取るように分かるさ、お前達の気持ちはな。哀れなことよ」


「そんな、僕達は、そんな……」


「朽葉、聞くな!」


 うなだれる朽葉を叱咤するように灰色が叫んだ。


「この人間が仮に正しく振り返り、正しく居場所に戻れたとしようか。それでもお前達は救われないよ。この人間と別れるだけの話だ。それならばいっそ、共に在れば良いではないか。三者で傷を舐め合うと良い。この人間にも、お前達のように永住権を与えてやっても良い。私の邪魔をしないという条件付きならな。でなければ、こうして私に喰われるだけさ、大抵の人間は。いいや、人間とも最早、呼べぬのかもしれないがな」


 ははは、と嘲笑うように化け物は笑った。その笑い声が私を正気に返らせる。いや、この状況で、何が正気で何が狂気なのかは分からなかった。だが、私は恐怖を打ち払い、化け物に向けて叫んだ。


「春野華を放せ!」


 化け物は一度、天空まで届きそうな体をぶるりと震わせ、言った。


「無駄さ。死に行く者に慰めは無用」


 途端、猩々緋の中に濃紺の泡が幾つも幾つも湧いた。ぶくぶくと湧くその水泡は、やがて速度を速め、春野華を飲み込んで行く。


「華! 目を覚ませ、華!」


 私を遮る松明に手を掛け、私は呼び掛けた。だが、ついぞ春野華が目を開けることも、その唇が何かを告げることも無かった。水泡だらけの中、春野華は飲み込まれ、全ての濃紺の泡が消えた時には春野華の姿も泡のように消えていた。


「春野、華……華……」


 私は何かをなくしたように呟いた。いや、事実、目の前でなくしたのだ。春野華という人物を。彼女は死んでしまったのだろうか?


「中に戻るんだ」


 灰色が強い口調で言った。だが私は、その言を無視して化け物に尋ねた。


「華、華は! 華は……!」


 尋ねたとは言い難いかもしれない。私の口は、華、という言葉を繰り返すだけで文章になってはいなかった。消え行く泡沫うたかたのように生まれては、はじけ、空気中に溶けて行くだけだった。そんな私を嘲笑うかのように化け物は言った。


「たった今、死んだのさ」と。

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