第九章【縁】1
――その後は、筆者の今までの人生における思い出が、つらつらと綴られていた。その中は悲喜こもごもに満ちており、また、砂になって消えたという筆者の知人についての想いが、繰り返し繰り返し、幾度も振り返るように書き綴られていた。それに関しては、後悔や懺悔がほとんどで、時に好奇心によるのであろう文章が顔を覗かせた。
私がその書物を読み終える頃には、陽が、やや傾いた頃だった。私は、朽葉の声ではっと顔を上げた。
「読み終わった?」
私が書物を膝の上に置き、背表紙をじっと見つめているのを、朽葉はいつものようにふよふよと宙空を漂いながら、私同様、じっと見据えていた。
「ああ、読み終わったよ」
「じゃあ、お茶でも飲んで」
朽葉のふさふさとした手には丸盆が乗せられており、そこには二人分の緑茶と、かまぼこの形をした
ふわふわと、たんぽぽの綿毛のように朽葉はカウンターに着地し、どうやって物を掴んでいるのか疑問に思わせる細い手で、器用に緑茶と菓子の載った小皿を私の方へ勧めて来る。
「ありがとう」
「ううん」
しばらくの間、沈黙が続いた。まだ湯気の立っている緑茶は少し渋みが強かったが、現実離れした私の頭を奮い立たせるには丁度良かった。
寿甘に手を伸ばし掛けて、「菓子」がどんな意味を持つのかふと考えたが、
「前も言ったけど、この店での菓子は大丈夫。食べて」
という朽葉の声で、私はそれを口に運んだ。もちもちとした食感と、ほんのりとした甘味が口の中に広がる。
「大体、分かったと思うけど、どうかな」
こと、と湯呑を置いて、朽葉が尋ねた。
「大体、というのは……」
「この世界の仕組みとでも言うのかな。そもそも、世界として定義付けて良いのかも僕には分からないけれど。君からしたら僕は色々なことを知っていそうに見えるかもしれないね。でも、実は決してそんなことは無いんだ。ただ、此処で過ごした時間が少しばかり多いだけ。しかも、菓子商店の女将には目を付けられている。これらは、君と同居している灰色と同じさ」
朽葉は、気のせいで無ければ少し自嘲的に口元を歪めた。目は細く閉じられていて、此方が見えているのかいないのか分からない。
「其処に書いてあったことはほとんどが真実と言っても過言では無い――」
と、朽葉の言を遮って、客が誰一人としていなかった貸し本屋の引き戸が急に開かれた。
「邪魔するよ」
今日、初めての客となる人物は、先程の話にも出て来た、この町の菓子商店の女主人であった。彼女は、いつか見たように
「今日の客は私だけかい?」
女主人は朱を
「お久し振り。元気かい?」
「まあ、そこそこ」
「そこそこ。ほう、そこそこ元気かい。そいつは良かったね。それにしても、静寂を愛するとまで言っていた朽葉。お前が、これと馴れ合うなんてね。灰色の入れ知恵かい?」
女店主の横顔。先立ってよりも唇を歪め、朽葉に尋ねている。私は何も言えぬまま、ただ二者を見ているしか無かった。
「そんなことは無いさ。それよりも、今は忙しい時間じゃあないの。こんな寂れた貸し本屋に、何の用」
「何の用、と来たか。偉くなったもんだね、朽葉。ただの人間の成れ果てが。誰のおかげで、此処で生活出来ていると思っているんだ」
女店主が少々、語尾を荒げて朽葉に告げる。朽葉は珍しく瞳を開き、彼女を見据えていた。その名前と同じ色の両の瞳に、女店主の姿が映っている。
「ふん、まあそれは良いさ。私の道楽のようなものでもあるからね、お前達を生かしているのは。今日、来たのはこの彼のことさ。なあ、お前さん。もう一度、菓子商店に来る気はないかい?」
女店主が私に向き直る。その目は底が知れぬように深く黒く、まるで私を飲み込むかのようであった。
「待った。彼はもう既にうちで働いている。契約しているんだ。其方で働かせることは出来ないよ」
「いつ、契約を結んだというんだ。そんな話は聞いていないよ」
「此処で彼が働いている、それが証拠だ。給金も出す」
そういえば、給金の話など全く聞いていなかったことを私は思い出す。此処では――この町では、頭の中でほとんどのことが何処か
それにしても此処に来て何日かが経つが、私には良く分からないことだらけだ。それらについて、私は灰色や朽葉から説明を受けるのだが、やがて、ぼんやりとした
ふと、私は「振り返れ」という言葉を思い出す。灰色が何度も私に言った言葉だ。朽葉も言っていた。私は、此処に来て何日になるのだろう。確か、途中までは数えていた筈だ。今はどうだ? 思い出せるか?
「金など、此処では何の役にも立たないさ。大切なのは、
「良いのかい。店主自らがそんな核心を告げて」
「少しくらいは構わないさ。私はこう見えても今、機嫌が良いんだ。どうせ筋書はこうだろう? お前と灰色で、こいつを救おうというのだろう? その為に躍起になっているって所だろう?」
朽葉は黙っていた。ただ、黙って、女店主をじっと見ている。
私は、二者の会話を聞きながら、此処に来て幾日になるかを頭の中で必死に思い出そうとしていた。五日目までは数えていた気がする。それから幾つの日が経過したのだろう。
「出来やしないさ。大体、こいつ自身が必死になっていない。そんなこと、
女店主が、何度目になるだろう、唇だけで笑う。
「出来るかどうかなんて、やってみなければ分からない。僕達は今、その途中なんだ。だから此処で働いて貰っている。此処で彼が働いている以上、菓子商店で働くことは二重の契約、不可能だ。彼が此処との契約を破棄するというのなら別だけれど」
そこでやっと、朽葉は私を見た。朽葉色の両目が答えを促すようにちかりと光った気がする。私はと言えば此処に来て幾日になるかを考えていた最中だったので、急に話を振られて、遠くの場所から呼び戻されたかのように、はっとした。
「ねえ。君は、どうしたい?」
朽葉が、言う。私は、かろうじて思い出す。この貸し本屋で働き出して今日が三日目になるということを。そして、それがとても大切だということを。
思い出す。完全トーティエント数、三という数字。私には全てに理解が及ぶわけでは無いが、この町では三という数が非常に重要らしい。そうだ、春野華も言っていた。文字通り、消えるようにしていなくなってしまった彼女は、今、どうしているのだろう。この入り込んだ思考が、女店主へと向けて私の発言を紡ぎ出した。
「春野華がどうしているか、知っていますか」と。
思えば、朽葉の問いを無視した形になった。それは申し訳無いと思う。だが、私にとって春野華は、順として灰色の次に親しくなれた、優しい少女だった。(灰色と私が親しくなれているかどうかは厳密には分からないが。)
彼女は故郷へ帰った筈だったのに、あの日、私の前に現れた。そして、消えた。おそらくは雇用主であった女店主なら、何か事情を知っているのかもしれないと私は思った。目の前で彼女が消えてしまったという事実については、深くは気にならなかった。いくら私でも、もう分かっている。此処は、そういう町なのだ。
私の発言を聞いた途端、もう何度目になるだろう、女店主は、にたりと笑んだ。
「あの子は故郷に帰ったのさ。それ以上、何か知りたいことでも?」
「そう、聞いてはいましたが……信じられないかもしれませんが、彼女は私の目の前で、掻き消えたんです。沼に案内してくれて。その途中で。故郷に帰ったけれど、土産を買う為に戻って来ていたんです。それで」
私の言葉は、少々、整頓されていなかったかもしれない。私は、またも混乱していたのだ。いくら此処がそういう町だと思っていても、私と親しくしてくれた、此処での友人のような彼女が自分の目の前で消えてしまったのだ。あの時の混乱と困惑を、私は今、まざまざと思い返していた。すると、女店主は文字通り誘うように言った。
「それが知りたければ、うちに来て働かないかい? いや、あと一度、話をしてくれるだけでも良いんだよ」と。
すい、と朽葉が私と女店主の間に移動した。まるで、私を庇うかのように。
「君に名前があれば、僕は君の名を強く呼んでいる所だよ。君が彼女を気にしていることは分かった。だけど、此処で君を奪われたくないんだ。これは、僕と灰色の彼のエゴイズムなのかもしれない。せっかく此処まで辿り着いた僕達を、邪魔されたくないんだ。今日で三日目になる。今日が本当に大事な日なんだ。今日を越えれば、君は少し自らの置かれている状況を理解する筈だ。
ははは、と高らかに響く笑い声があった。
「これ以上は言えないだって? さっきからルールを壊してばかりのお前が良く言うよ。どうせ、その調子で色々なことを説明したんだろう? 説明したって無駄さ」
私は、女店主の言に頷かざるを得ない。私は説明されたことを全て覚えていられていない。ただ、正しく振り返ること、というのは、何度も頭の中で警鐘が鳴るように繰り返されている。だから私は、こんな時でも考えている。私が此処に来て、何日が経過したのかと。
「なあ、お前さん。彼女のことを教えてやる代わりに、うちに来ないかい?」
それは非常に
だが、三日、という数字が頭をよぎる。今日、この貸し本屋で勤務を終えれば私が働き始めて三日目が終了になる。三、という数字がこの町で如何に大切なのか、私にも薄々、分かってはいる。しかし、春野華のことが気になる。春野華が何処へ行ってしまったのか。一体、彼女に何があったのか。知りたい。
私は彼女のことを思いつつ、女店主を見つめた。その深淵のような黒い瞳と目が合う。私はそれに耐えられず、女店主の着物に目を移した。
途端、目の前が少しの間、真っ赤に染まった錯覚を覚えた。私は以前に、これに似た不吉な色を見たことがあるのではないか? 思い出せ。しかし、思い出せない。心の内側で葛藤が続いた。
「どうしたんだい。私の誘いを断るのかい?」
ぐるうり、と脳味噌の中を掻き回すようにして女店主の声が私に響く。私は、しばしの沈黙の後、自らも思考として自覚していなかった言葉を吐き出した。
「あなたは、何者なんですか」と。
聞いた途端、女店主の顔色が少々、変化したように見えた。気のせいかもしれないが。一方で私は、何故、そんなことを尋ねたのだろうと思い返していた。ただ、女店主を色で喩えると、恐ろしい程に真っ赤な色が想起される。何故、何故、私はそんなことを思うのだろう。また、私は忘れてしまっているのだろうか。自らの名前と同じくらい、忘れたくとも忘れられない筈の大切なことを。
「何者? ただの菓子商店の店主さ」
女店主は、
私は、もう一度、女店主が着ている着物を見た。鮮やかな、赤。その色が私に警告する。近付いてはいけないと。
そうだ、真に信用するはどちらだ? この、菓子商店の女主人なのか? 違うだろう。これまで、必死に私を助けようとしてくれた灰色と朽葉だろう。考えてみれば、私のことを何も知らない内から、灰色は私を助けようとしてくれた。未だ、何故、私をそうしようとしてくれるのか理由は聞き出せていないが、灰色はいつも真摯だった。菓子商店でも、自らの身を危ぶめてまで私を助けてくれた。朽葉も同じだ。おそらくは、この町での決まり事を侵してまで、私に協力してくれている。その朽葉が言うのだ、今日で三日目だと。今日を越えれば、私は置かれている状況を理解する筈だと。
春野華のことは気になる。気になるが、菓子商店の女主人を信用することは出来ない。それから、灰色と朽葉の二者については、信用していることもあるが、情、もあったのかもしれない。私は二者が好きだ。共にいた時間は短いかもしれないが、惹かれている。彼らを、好きになっている。私の返事は決まった。
「其方には行かない。私は、此処で働く」
その時、私は此処に来てから十二日が経過していることを思い出した。
「……ふん、そうかい。なら、用は無いさ。まあ、気が変わったらいつでもこちらは歓迎するよ。ああ、朽葉。灰色の奴と同じく、やり過ぎは禁物だよ。忠告したからね。これでも大目に見ているんだ」
言い残し、女店主は乱暴に扉を開け、ぴしゃりと閉めて去った。不意に朽葉が振り返る。
「ありがとう、僕らを選んでくれて」
光る朽葉色の瞳は、濡れたように光っていた。
「いや、此方こそありがとう。何処の誰とも知れぬ私の為に、色々と良くしてくれて。感謝している。右も左も分からないこの町で、私は灰色の彼と朽葉、君がいてくれたからこうしていられる」
朽葉は、ぱちぱちと瞬きをした。
すると、
「今、女店主が来ていたようだが」
「うん、大丈夫」
灰色と朽葉は短い会話を交わし、両者共に私を見た。
「今日は此処に泊まって行くと良いよ。君の記憶が少しでも戻るかもしれないし、話したいこともあるんだ。今後、きっと君は忘れない」
「ああ、ありがとう」
「此処での三日は勝負の日数なんだ。皆、そのことに気付かず、菓子商店に行ってしまい、誘われるままに三度、自らの体験談を話してしまう。事実、君もそうだったろう?」
「私が止めねば、こいつは三度目の話をしてしまっただろうな」
灰色が口を挟む。その通りだったので、私は頷く。
「そうなると、もう戻れない。此処で生きて行くしかなくなる。それくらい、その数字は大切なんだ。そういったことも含めて今日は君と話をしたい。それに、気になることもあるんだ。今日は此処にいた方が良い」
「気になること?」
私の問いに、朽葉は肯定を返す。
「そうだな。とりあえず私は外灯を灯してくる。朽葉、あとで
「うん」
言うと、灰色は玄関扉を開け、出て行った。
「じゃあ、店番の続き、よろしくね。それと、本当にありがとう。僕達を信じてくれて」
ふより、と朽葉は奥へと引っ込んでしまう。私は再び椅子に座り、客が来るのを待った。だが、以降で外灯を灯した灰色が玄関扉を開ける以外に、その日、扉が開くことは無かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます