第八章【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】 2

 ――あの日、彼が私の目の前から消え去ってから、幾度かの季節が巡った。私は、その頃では足腰に疲労を覚えやすくなっていた。もう、浪々の旅は限界かと考えていた折、休息がてら、私は一軒の茶屋で桜餅を食していた。丁度良い塩梅あんばいの塩と砂糖、上品なあん。頭上に花開く桜を眺めつつ、私は、これから如何したものかと思考した。


 やがて、空いた皿と湯飲みを下げに来た店の者に、私はいつもの尋ね事をした。これまでのことからほとんど期待はしていなかったに等しいのだが、此処に来て、思わぬ答えが返されることになった。「現世うつしよ幽世かくりよの話に似ていますね」とその者は言った。私が聞き返すと、盆を抱え直して彼女は話を続けた。


「この世のことを現世、あの世のことを幽世と呼ぶのはご存知ですか」


「ええ」


「これは私共、菓子職人や菓子に関わる者の間で伝わっている話なのですが、幽世には現世で味わえないほどの美味な菓子があるらしいのです。何でも、食べると、この世には戻って来たくなくなるくらいにはおいしいとか。戻って来たくなくなる、というのは表向きで、実際には、戻って来られなくなる、ということらしいですが。或いは、もう戻れない者が呼ばれる場所が幽世であるから、菓子を口にしようがしまいが関係無いとも聞きますね。とにかく、非常に美味な菓子が幽世にはある、というのがひっそりと伝わっております。世間一般には広まっていない話ですけれど。いや、何の根拠も無いお話ですよ。貴方様は、菓子に携わっていらっしゃるのですか?」


「いえ、そういうわけでは無いのですが」


 それから私は、きっと上の空だったろう。諸所を巡り十余年、ようやく辿り着いた話に私は歓喜していた。だが、これもまた掴めない雲のような話であることに変わりは無かった。歓喜すると同時、落胆を覚えざるを得ない。私は、ひらひらと舞う桜の花びらに自身を重ね、深く溜め息をついた。


 以降、私はよわいによる身体の限界を感じ、旅を終えることにした。長い時間を掛けて、得た情報は上記のたった一つであったが、決して無駄では無かっただろう。と言うのも、私は自身の好奇心を僅かであろうとも満たすことが出来たのだから。


 罪悪の念があると綴った私ではあるが、いつの頃からか、それと同等、あるいはそれを超える好奇心が自らの内にある事実に私は気が付いてしまった。知人の死を含む一連の出来事にそのような感情を抱くなど、不謹慎極まりないと私も初めは自身をいさめもした。だが、やがてそれは限り無く小さくなり、私は私の興味本位とも言える身勝手な思考に基づき、行動するようになって行ったのだ。


 やがて、私は自分がもうじき死ぬであろうことが分かった。七十を越えれば体は痛み始め、体力の衰えも感じていた。死を近くして、私は幽世の存在を意識するようになり、同時、以前に茶屋で聞いた話を幾度も思い出すようになった。


 そういえば、彼は菓子について言及していた。諸所を闇雲に巡るような真似はせず、初めから菓子店にだけ絞って聞き歩いていれば、或いは私は真相に辿り着いていたのかもしれない。今になって後悔が訪れた。浅慮であった。当時の私は少なからず動転していたのかもしれない。目の前で人が砂粒に変わったのだ。動揺しない方が不思議だろう。だが、こうして晩年を迎えて、前記に気が付くとは、如何にも間が抜けている。私は苦笑した。


 彼は二度生まれ、もう一度生まれると言っていた。これは一体、何を指しているのだろう。輪廻転生のことを言っているのだろうか。とすれば、彼には前世の記憶があるというのだろうか。こうして改めて振り返って考えてみるに、やはり彼の言動には謎が多かった。


 この世は、とかく謎多き世界なのかもしれない。私は私の周囲だけを知り、世界を知った気になっていたのかもしれない。そのおごりとも言うべき部分に気付かせてくれた彼には礼を言うべきだろう。私に礼を言われた所で、彼が返すものは憎悪でしかないのかもしれないが。


 この期に及んでも尚、私は彼の名前を思い出せずにいる。確かに峠の茶屋で聞いた筈なのに。年のせいで記憶に霞が懸かっているのだろうか。だが、約十年前に彼が私の家を訪れた時も私は彼の名を思い出せなかった。何故だろうか。


 ――此処からは私の、ただの推測になる話だ。年寄りのたわむごとと思い、出来ることならしばしお付き合い願いたい。


 人が死んだ後の世界があるかどうかは定かでは無いが、仮に幽世とでも言うべき死後の世界があったとて、其処に辿り着く人間は死んだ人間だけとは限らないのでは無いだろうか。つまり、生きている人間も、其処に辿り着く可能性があるのではないかと――私は思うのだ。


 幽世があるとしたら死期の近い私のことも招待してくれはしないかと、心ひそかに私は期待している。何しろ、幽世や天国に行ったことがあるという人間の話はついぞ聞いたことが無いのだから、この目で確かめるしか無いであろう。


 そして、その幽世だが、生きている人間が何らかの事情で迷い込んでしまう可能性があるという考えを私は捨て切れずにいる。それに該当するのが、名を思い出せない私の知人のことだ。明け方、唐突に私の家を訪れ、意味不明瞭なことを言い、最期は黒い砂になって消えてしまった彼のこと。彼は、「あの場所」に関わってしまったが為に「平穏無事」な生活を送れなかったと言っていた。そして、彼はこうも言っていた。「二度、生まれた」と。加えて、彼の消えた後に残された、「産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる」と書かれた半紙。これらのことから、私は彼の身の上に起きたことを以下のように推測する。


 彼は、生きながらにして幽世に辿り着いてしまったのではないか。其処にどのような経緯があったのかは分からない。空に吸い込まれるようにして現世から消えてしまったのかもしれないし、古井戸の底に落ちて、辿り着いた先がそうだったのかもしれない。いずれにせよ、彼は命を持ったまま、幽世に逝ってしまった。その幽世への道が「産道」であり、幽世が「揺り籠」ではないかと私は思うのだ。


 実際、人が何度、生まれるのかは分からない。輪廻転生の説にも私は詳しくない。だが、もしも幽世が、もう一度人生を送る為の――或いは、それに近しい何かの――場所だとすれば、「産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる」と言い表せるのではないだろうか。


 また、幽世が存在するとすれば、おそらくそれは現世とは別世界と言って良いだろう。古い文献などでは良く目にする話だが、自分の本来いる世界とは別の世界の食べ物を口にしてしまうと、自分が元いた世界へは二度と戻れなくなると聞く。真偽は定かでは無い。


 重ねて言うが、此処までの話自体、死期の近い私の戯れ言のようなものだ。だが、私は思うのだ。彼は、産道を経て、揺り籠へ――つまり、幽世に生まれ落ちてしまった。生きているままに。そして其処で、幽世の菓子を口にしてしまった。故に、彼の命は幽世のものとして息づいてしまった。私が彼の名前を今でも思い出せないことも、其処に関係しているのではないかと思うのだ。


 亡くなった人の名前を思い出せないということに私は疑問を感じている。此処で思うのが、彼は、いわゆる正規に導かれて幽世に逝ったわけでは無いと考えられる点だ。彼が幽世の食べ物、菓子を口にした時点で、彼は何か捻じ曲がった形で幽世の住人になってしまったのではないだろうか。そして、現世の――これは私自身にしか確認が取れないことだが――人から名前を忘れられてしまうに至ってしまったのではないかと。


 しかし、彼は何かしらのきっかけでか、現世に戻って来た。けれど、彼の寿命は尽きてしまっていた。これが、いわゆる彼の告げた所の「平穏無事」な生活では無い時間を過ごしてしまった結果であろう。彼の命は幽世でそのほとんどを使い切ってしまったのだ。


 何故、残り少ない命を懸けて私の元に彼は来たのだろう。礼を言う為か、恨み言を言う為か。あるいは、私が彼へ幽世への道筋を少なからず作ってしまったということで、縁を辿って命が導かれた結果であろうか。


 考える程に分からない話ではあるし、人によっては意味不明なことを言っていると捉えられるであろうが、私は死ぬまで、自分のこの仮説を忘れることはしないだろう。


 そして、願わくば、死後は彼の逝った場所と同じ幽世に導かれるよう。私の心情が、彼への償いなのか、単純なる好奇心なのか。きっと、どちらもなのだろう。だが、彼にもう一度会えるのならば、すまない、と。許されざるとも謝りたい。それが出来ないのならば、彼の言う所の「平穏無事」では無い生活を私も送りたいと思う。これもまた、償いなのか、好奇心なのかは分からないが。


 彼は、二度生まれ、更にもう一度生まれると言っていた。それが本当なのかどうなのか私には判断が付かないし、前記したように、輪廻転生については詳しくない。だが、もしも。もう一度、彼がこの世に生を受けるならば。どうか今度こそ安らかなる人生を送れるよう、私は願ってやまない。

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