第八章【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】 1

 ――産道、というものを知っているだろうか。女性の体から赤ん坊が産まれ出でる際、必ず通って来る道だ。その通い路は当たり前のように一方通行であるが、稀にもう一度、通ることの出来る者がいる。無論、実際の話では無い。


 人は、一度、この世に生を受ければその命を自然と失い終えるまで、本来は現世うつしよで生き続ける生物である。これは人に限った話では無いかもしれないが、本書では敢えて「人」と明言させて頂く。また、幽世かくりよの存在を肯定した上での話ということも記しておく。


 人間は、現世に生まれ、現世で死亡する。至極、当然のことだ。だが、誕生する際に通った産道を戻り、辿り着いた先で、命尽きるまで暮らす者がいると聞く。この場合、産道というものは必ずしも実際の母親の産道とは限らず、喩えるならば、地から天の中空へ、ぽっかりと伸びる透明な道筋のようなものを指すらしい。らしい、というのは、筆者の私自身が諸処しょしょより伝え聞いた話になるからだ。事の起こりは以下である。


 私は、某日の朝早くに、ドンドンという太鼓のような音で目を覚ました。しばらくの間は、寝惚けていたせいもあってか、今日は祭でもあったかなどと考えていたが、やがて、今がまだ明け方であり、叩かれているのは太鼓では無く自家の戸であると理解するに至った。気怠さを引き摺りながら訪問者を確かめると、数年は会っていなかった知人だと分かった。私は、懐かしさが込み上げるも、こんなに早い時間から連絡も無しに訪ねて来るとは何事かあったのかと訝しんだ。


 知人は、ひどくやつれた顔をしていた。記憶の中の彼は、もっと肌に張りがあり、艶めいた黒い目をし、軽く束ねられた髪は清潔感を湛えていたと思う。だが、目の前の彼は、それらの一切を何処かに置き忘れでもしてしまったかのような容貌をしていた。疲弊、困憊こんぱい。そのような言葉が当て嵌まる顔付き、くたびれた衣、光の無い両目、乾燥が見て取れる髪。以前と打って変わったその様で、私が彼だと分かったのは、彼が私の顔を見て名を呼んだからだ。あかつき、と。


 彼の声には特徴があり、色で喩えるならば、常磐色ときわいろとでも言うのだろうか、青々とした木々の葉を思わせる響きを持っているのだ。そのイメージ通り、彼自身もまた、常緑樹のようにはつらつとした人物であった。しかし目の前の彼は、見る影も無かった。


 彼が私の名を呼んだ時、私は彼のことを思い出した。常磐色が頭の中に、さあっと広がって行く。しかしながら、私は彼の名を思い出すことが出来ない。久し振りの再会だからだろうか、あるいは寝起きだからだろうかと、私は内心、首を傾げた。此処で、名を尋ねるのは失礼だろうかと私が思考を巡らせた際、彼は再び私の名を呼んだ。そして、続け様に言った。


「私は君に会いたかった。君はもう覚えていないかもしれないが、いつか、峠の上の茶屋で団子を馳走してくれたことが、私は非常に嬉しかったのだ。長い道のりの末、峠の頂で食べた団子と茶の味は今でも覚えている。君にとって私は、旅の道中で知り合った一介の百姓に過ぎないかもしれないが、私はもう一度、君に会ってこうして礼を言いたかった。ありがとう」


 彼の口調は、少々、早めであった。また、その内容を理解し、私が思い出すまでに私は幾許いくばくかの時間を要した。数多くの思い出の中から、ああ、あの時のことか、私が居を移す際に峠を越えた時の話かとようやく思い至った所で、またも彼は言を継いだ。


「あれから私は、今度出会う時に、あの時の団子と同じくらいか、それ以上に美味な菓子を君に馳走したいと思っていた。峠を越えたふもとに住む君のことを、時々は思い返しながら、私は菓子を食べることが多くなった。やがて、私は君に馳走するに値する菓子に巡り合った。これこそが、そうだと。だが、その時には私は既に、君に会う道筋を失っていた。どれだけ振り返ろうとも、君に辿り着く道はもう分からなくなっていた。しかし、こうして会うことが出来た。良かった。残念ながら、菓子は持ち帰ることが出来なかったが、あれは人が口にしてはならないものだった。結局、私は君に美味な菓子を贈ることが出来なかったが、こうして再び会え、礼を言う機会が設けられた巡り合わせに感謝している。あの時は、本当にありがとう」


 やはり、口調は早いままだった。何を焦っているのだろうかと私は不思議に思った。そして、彼が当時のことをひどく恩義に思っていることは伝わって来たが、こんな明け方に唐突に訪れ、告げることだろうかという疑問もあった。この時になっても私はまだ、彼の名前を思い出せずにいた。


 不意に、彼の背後が少々、明るく光った。太陽が昇ろうとしているようだった。本格的に朝になろうとしている。そう思った瞬間、次の言葉で私は陽光に移っていた意識を引き戻された。


「憎む」


 彼は一言、そう言った。今度は、言葉が続けられるまでに間があった。彼の発した声の色は、どす黒く染まっていた。私を見る目は暗澹あんたんとしており、逆光になっているせいで生じた、彼の顔に差した影が不気味に私を睨んでいた。


「あの時、お前が私に菓子を馳走などしなければ。私は、お前に美味い菓子を、などと考えずに済んだのに。菓子のことなど考えずに済んだのに。あの時、お前に声を掛けられなければ。お前に出会わなければ。私は平穏無事に生きて行くことが出来たというのに。全部、お前のせいだ。お前こそ、あの場所に行くべきだ。なあ、代わってくれよ。俺と代わってくれよ。俺の時間を返してくれ。どうして俺に声を掛けた、どうして」


 彼は、とうとう私に掴み掛かり、がくがくと揺さぶった。その力は尋常では無く、私の両肩は悲鳴を上げるように痛んだ。生気の無い彼の一体何処からこんな力が、と思わせるほどだった。


「良いか、俺は信じている。これで二度、俺は生まれたんだ。二度あることは三度あるだろう。次の三度目こそが俺の本当なんだ。今度こそ、俺は平穏に暮らすんだ。お前とも、あの場所とも、関わらずに。だが、俺はお前を許さない。絶対に」


 私の肩を更に強く、彼が掴む。その時、彼の肩越しに、太陽が昇って行くのが見えた。陽光は強さを増し、私は少々、目を細めた。ちかり、と太陽光が鋭く光った折を狙ったかのように、彼は途端に私の両肩を掴んでいた力を緩めた。


 ――いや、厳密には、彼は黒くどろどろした濁りのようなものになって地に落ちた。私が呆然としている間に、濁りは砂粒の如きものに変わり、さらさらと風に舞い、消えた。私は、その行方を目で追った。だが、黒き砂は、もう何処にも見えなかった。私が再び目を戻すと、其処には折り畳まれた薄い半紙が置いてあった。彼の持ち物だろうか。私は、起こった事柄を飲み込めないまま、それを拾い上げた。それには、こう書いてあった。「産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる」と。字は、震えていた。


 ――前記した出来事ののち、私は長らく住み慣れた地を離れることにした。妻子の無い独り身の私は気楽なもので、何処に行こうと勝手なものだった。幸い、若い頃に貯めた銭があったので、私は諸所を巡ることにした。無論、知人の身に起きた事柄の解明の為だ。とは言え、生前、知人が何処に居を構えていたかも知らない。私は、当ても無く浪々とした。


 生前。自身の思考の池に浮かんだその言葉に、私は疑問を持つ。知人は、本当に死んだのだろうか?


 彼は、黒く濁ったものに変化した後、更に砂粒となり風に吹かれて消えた。人間が、そのような死に方をするなど、六十年以上生きた私でも聞いたことが無い。そもそも、あれは本当に彼だったのだろうか。妖怪か何かの類で、私は化かされたのではないだろうか。あるいは、生き霊ではないかとも思う。


 だが、私には彼の生存を確かめる術が無い。また、彼の言葉が全て真実である証拠など、何処にも無い。失礼な物言いになるかもしれないが、彼は気が触れていた可能性すらあるのだ。それ程に、彼の言動には現実性が欠けていた。しかしながら、そのような不確定なものに自身の生涯を懸けようとしている私もまた、何処かおかしいのかもしれない。


 けれども、私は責任を感じている。彼が言ったように、私さえ彼に声を掛けなければ、と。そうすれば、「あの場所」とやらに関わらず、「平穏無事」に彼は生きて行けたかもしれないのだ。これも、彼の言を真実と仮定するならば、の話だが。


 私を突き動かしたのは罪悪の念だった。勿論、私が茶屋で彼に声を掛けたのは、彼の不幸を願ってのものでは断じて無い。しかし、結果的にそれが引き金となって彼を絶望に落とし込めるに至ったのであれば、私に責があるだろう。私は私の残りの時間を使って、彼の身の上に起こった真相を突き止めることを決意した。


 私は、彼の言葉と、彼の残した一文だけを頼りに、方々で人々に聞いて回った。菓子、時間、生まれる、あの場所。これらが一括りになる話に何か聞き覚えは無いか。人間が黒い濁りになり黒い砂に成り果て死んで行く様を見たことはあるか。産道を経て、揺り籠に生まれ落ちるという言葉を知らないか。何十、何百人と聞いて回った。だが、誰もが首を横に振るだけで、何も手掛かりは得られなかった。


 そもそもの基盤となる情報が、このような曖昧なものでは、雲を掴むような話なのかもしれない。私に刻まれた罪悪感は薄れることは無かったが、徐々に諦めを覚え出し始めたことは否定が出来ない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る