第七章【消失】4

 ――翌日の早朝、私は朽葉の貸し本屋を素通りし、例の沼の前に座っていた。朝露あさつゆのせいか、腰を下ろした草の上が少し湿っていたが、そんなことは構わなかった。


「どうして私は此処にいるのだろう」


 それすらも、どうでも良いことのようにも思う。けれども、私の考えることといったらそれくらいしか無いのだ。考え始めれば、ゆるゆると薄い雲が張り出すように頭の中は静かに曇り始める。朝の霧のように。


 周囲のぼやけた風景と脳裏が、そっと歩み寄るように重なって行く。私は、ただただ沼の表面を見つめ、「どうして私は此処にいるのだろう」という疑問を繰り返した。まるでそうすることしか出来ない人間ででもあるかのように。止まることの無い水車のように。同じことを幾度も幾度も繰り返し繰り返し考えた。


 濁り切った沼の水が急激に澄むことなど無いように、私の頭の中がそうなることも決して無かった。それ所か沼の色に近付こうとでも言うかのように混濁して行く一方だった。そのことに焦燥や不安を覚える反面で、もうこのまま此処に座り込んでいれば良いのではないかという一種の安堵を覚えてもいた。そうしたらいつか体も心も沼の黒と青丹あおにに染まり、消えて行けるのかもしれない。


 そんなことをいつの間にか考えていた私を引き戻すかのように、昨日の如く、背後から掛かる声があった。


「此処にいたんだ。探したよ。何しろ今日は重要な日なんだ」


 私が首だけで振り返ると、陽光を取り込んでちかりと光った朽葉色の瞳二つと目が合った。


「忘れちゃったかな。此処では完全トーティエント数の内、最小の数が大事なんだ。今日は君が僕の店に勤め始めて三日目になる。此処で放り出されたら困るんだ。そうだ、貸した本は読んだ?」


「……いや」


「そう。急がなくて良いけれど、読んでね。それじゃあ、行こうか。もうお昼近い」


 ふわふわと朽葉は私に近付き、ふさふさの毛に包まれた手を差し出した。こんなことは初めてだった。私が少々戸惑いながらもその手を軽く掴むと、意外にもあたたかい体温が感じられた。


「生きているんだな」


 以前、生きても死んでもいないと述べられた朽葉の言葉が思い返される。


「僕は生きているとは言い難い。正直に言えば、君もそうだ。けれど、君のことは君自身に掛かっている。君が、これで良いと思えば、それまでだ。この流れで良いと思えば、それまでなんだよ。僕は――僕達は、そうなってほしくない。勝手な願いかもしれないし、本当に此処に君の幸福があると君が思うなら、それが一番良いのかもしれないとも思う。だけど、そうは見えないんだ。君には別の帰る所があるんだよ。内緒だけど、僕にも、灰色の彼にも、それがあった。でも、僕達は――此処で良いと決めた。君は、まだそうなってはいない。惑わされないで。どうか振り返ることを諦めないで」


 繋がれた手の先に少し、力が込められた。私達はそのまま手を繋いで貸し本屋までの道を歩いた。朽葉はいつものようにふわふわと浮いていたが。その存在が、手のあたたかさが、どれ程、心強かったことか。やや間を空けてしまったが私が声に出して頷いた時、「良かった」と朽葉は返した。


 私達は並んで貸し本屋への入り口をくぐる。今日は私が此処で働く三日目の日だった。

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