第七章【消失】3

 私は混乱し出した頭を押さえて、ふと前方を見遣った。すると森のように集まっている木々の間で、きらりと何かが反射したように見えた。ふらふらと、私は吸い寄せられるようにして重たい足を引き摺り、其処へと向かった。彼女の言っていた、沼なのかもしれないと。


 膝の辺りまで伸びている草を無造作に足で蹴り、細い多くの木々の間を抜けるようにして歩みを進めると、それはやはり沼だった。だが、正直な所、彼女の言ったように美しくは無かった。むしろ、淀み、暗く、人を飲み込んでしまいそうな怪しさすら感じさせるもので。私は一人、ただ沼の淵に立ち尽くしていた。まるで影が地に縫い留められたように、しばらくその場から動くことが出来ずにいた。そうして不意に、私は彼女の言葉を思い出す。


 ――丁度、今頃は空の色を映し込んで綺麗な姿が見られますよ。


「綺麗?」


 独り言が零れる。確かに今は夕刻、見上げてみた空は先程よりも夕焼けの色合いを濃く強くした鮮やかな朱色に染め上げられ、見る者をはっとさせるくらいの色彩を放っている。だが、沼はその色のかけらさえも映し込んではいない。それはただ暗く、何処までも暗く。目視出来る限りの全てを、暗澹あんたんとした黒と青丹あおにの入り混じる濁った姿を以て、私の前に露呈させていた。


 私はしばらくの間、半ば茫然とした心持ちで其処に立っていた。目は確かに沼を見つめてはいたが、本当の意味では何も映してはいなかったように思う。時折に吹く風が沼を囲う木々をざわざわと揺り動かし、その音は四方八方から私の耳へと入り込む。


 だんだんと辺りが冷え込み始め、ふと空を見上げると、真っ黒な闇が広がっていた。その時、私が見ていたものは明らかに天空である筈なのだが、それはまるで深く見えない沼の底のように思え、私は意識するよりも早く身震いをした。もう一度、沼を見つめる。やはり美しくなど無く、むしろ空恐ろしいものを覚えた。私は期待せず、名前を呼んだ。


「はるの、はな?」


 名前と言うよりも、ただの音の羅列のようになって私の口から出たそれは、ざわめく木々の音に消され、おそらくは誰の耳にも届くことは無かった。当たり前のように私の隣にいない彼女を探す為、暗くなった辺りをぐるぐると見回してみたが、やはりまた当たり前のように彼女の姿は何処にも無かった。


 私の見間違いで無ければ、あの時、彼女は私の目の前で掻き消されるようにしていなくなってしまった。何処に行ってしまったのだろう。朽葉の貸し本屋で待っていれば、また会えるだろうか。本を借りに来てくれるだろうか。いや、菓子商店に行けば会えるのだろうか。


 否、彼女は帰ると行っていた。故郷に、帰るのだと。確かに今日、帰ると言ってはいたが、此処の者はあのような帰り方をするのだろうか。会話の途中で、姿を消して? そもそも、美しい沼を見て思い出を作りたいと言ってはいなかっただろうか。しかし彼女は沼も見ず、立ち消え、こうして私の目前に広がるその沼は決して美しくなく。一体どういうことだろうか。


 ふと背後に気配を感じた。薄暗い中でそれを感じることは、本来ならば恐怖や不安を覚えるものであったかもしれない。だが、私は心中に広がっている困惑や落胆のまま、振り返った。其処には、宙にふよりと浮いている朽葉の姿があった。夜を控え、灰色に染まりつつある空気の中で朽葉の瞳はうっすらと光り、私を見つめている。


「帰ろうか。必要なら送るよ」


 朽葉は言い、私の反応を窺うように、ふわりと改めて揺れた。私は無言のまま首を横に振る。


「じゃあ、本屋までは同じ道だから。一緒に帰ろう」


 ――何処へ?


 私は喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。振り返るということは私の帰途に繋がることだと私は解釈していた。帰りたいと、思っていた筈だった。だが、一体、私は何処へ帰るというのだろう。名前をなくした人間が帰るべき場所など、何処にあるというのだろう。春野華。彼女は無事、故郷に帰ることが出来ただろうか。それならば、良いのだが。


 私は、自分の思考がまとまっていないことを自覚していた。また、彼女について、この沼について、朽葉は何か知っているのだろうかという疑問も持っていた。だが最早、それを尋ねるだけの力が私には残されていなかった。


 ――この町は、とても不思議だ。自らの記憶にかすみが掛かったようになっている私ですら、此処が普通では無いことくらい、分かる。そして、不可思議で形作られたこの町に永住するつもりなど、私はさらさら無い。しかしながら、私はどうしたら良いのか分からなくなりつつあった。直面する多くの不可思議の中に、私はほんの僅かで良い、安らぎや、帰るべき場所への手掛かりをきっといつも求めていたのだ。


 だが、春野華は消え、私の名は私から失われ、未だ帰るべき場所のかけらも思い出せない。振り返ることが大切だと、灰色の彼と朽葉は言った。確かに今の私に出来ることは、それくらいしか無いのだろう。自らが辿って来た筈の道を正しく振り返り、思い出し、辿り直し、帰り着くこと。それが私に出来ることの筈だ。しかしながら――今や私の思考のほとんどに、逆接の接続詞が付いて回る。そう、私が思考し、帰ろうとすることに、一体何の意味があるというのだろう。


 私と朽葉は沼を背に歩き、森を抜け、やがて貸し本屋の前に至るまで、互いに一言も発することは無かった。


「ちょっと待ってて」


 本屋の前に着くと、扉の鍵を開けて朽葉はするりと中に飛んで行った。程無くして戻って来た彼のふさふさとした腕には、一冊の本が携えられている。


「まだ途中でしょ。貸すから読んで」


 その言葉で、それは私が先程まで読んでいた【産道を経て、揺り籠に生まれ落ちる】という書物だと分かった。受け取ろうとしない私の手を取り、半ば押し付けるようにしてそれを渡した朽葉は、それじゃあ、また明日、と言って本屋の中に戻って行った。そして鍵の掛かる音が小さく響く。


 私は手元の書物に目を遣ったが、明かりのない其処では、ただの真っ黒い四角形にしか見えなかった。見上げた空も同じ色をしていた。星など、一つも無い。


 私は、重い足を引き摺るようにして家路を辿った。


「嘘だな」


 のろのろと歩きながら私は独り言を呟く。こんなものは家路では無かった。私は何故、一冊の書物を持って帰途では無いものに着いているのだろう。夜も近いというのに明かりのほとんど灯らない家々の間を縫うようにして、私は一人で歩く。妙な気分だ。私は薄ら笑いを浮かべて歩いた。


 帰るべき所では無い仮住まいの家に帰り着くと、いつもの位置で灰色の彼が目を閉じていた。眠っているのかもしれない。私は戸締りをして、床に就く。持っていた書物は投げ出されるようにして私の手を離れた。ばさり、と乾いた音がする。頭の片隅で、借り物なのに、という懸念が一瞬だけ光って、すぐに消えた。何だか、何もかもがどうでも良かった。

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