第七章【消失】2

 ――夕刻。外の色がうっすらと夕焼けに染まっている。彼女が店の表戸を控え目に開けたことで、それは分かった。淡い朱色を背に、戸の隙間にひっそりと立つ彼女は、まるで一枚の絵画のように美しく、そして同時に人を惹き込む魔のようなものも私に感じさせた。だが、私はすぐさま現実に立ち返ることになる。


「そろそろ店仕舞いの頃合かと思って参りました。早かったでしょうか?」


 いや、と私は手元の本を静かに閉じて立ち上がる。しかしながら店を閉める時間は、朽葉の言によれば、はっきりとは決まっていないようだった。一応、店仕舞いをして良いかどうかを確認する為、私は奥の間へ行こうとしたのだが、それには及ばなかった。私が振り返った先、既に朽葉は其処にいた。宙に佇み、その名と同じ色の瞳をうっすらと開き、音も無く、ただ彼女をじっと見据えていた。


「何か?」


 彼女はそんな朽葉にも動じず、歌うように、静寂を壊さず細心の注意を払うかのようにして、朽葉に対し、問い掛ける。それにも朽葉は黙ったままだった。


「もう店を閉めて良いか聞きに行く所だったんだ」


「そう」


「それで、良いのか、閉めても」


「……うん」


 答える間中、朽葉は、ちらとも私の方を見なかった。声音も若干ではあるが、いつもとは少し違うように思えた。素っ気無い、何処か灰色の彼を彷彿ほうふつとさせるものがあった。


 何故だろうか、何事かあったのだろうか。そう考える私の思考をまるで遮断するかのように、春野華と名乗った彼女は私に向けて言った。


「それでは、行きましょう。丁度、今頃は空の色を映し込んで綺麗な姿が見られますよ」


 沼の。言外にそう告げ、彼女はふわりと花のように笑う。少し小首を傾げた仕草につられるように、彼女の左にその美しい黒髪が流れる。


「本、読んだ?」


 不意に朽葉が声を発した。見上げると、今度は間違い無く私をじっと見ていた。


「あ、ああ。読んでいたけれど、まだ途中なんだ」


「そう。じゃあ、続きは明日に読んで。明日」


 明日。その単語を朽葉は繰り返し、


「店の方は僕がやっておくから。今日はもう良いよ。お疲れ様」


 と言って、再び奥の間へ引っ込んでしまった。


 私はその態度に引っ掛かりを覚えつつも、行きましょう、と言った彼女の声に誘われるようにして店を後にした。


 空は美しい夕焼けに染め尽くされようとしている。私は一度、上空を見上げてから彼女の後を追うようにして歩いて行った。


 彼女は、どんどん町の中央から離れて行っているようだった。確か沼は町の北の方にあると言っていた。ならば、北に向かっているのだろう。それにつれて人家は減り、周囲にはだんだんと木々が増え始めて行った。時々、思い出したように風が吹き、それらの枝々を揺らし、葉を揺らし、ざわざわという音を私達に届ける。


 不思議と、彼女は道中、一言も口を開かなかった。だが私は特にそれを不快には思わず、また、どうしてか分からないがあまり不思議にも思わなかった。ただ、こうして彼女の隣に並び立ち、同じ方角に向けて歩みを進めているだけで、何処か安堵にも似た感覚を覚えていた。何故だろう。


 ふと、「振り返れ」という灰色の彼が幾度も繰り返した言葉を思い出す。それに導かれるようにして私は半分程、首を後ろへと向けてみたが、私達の他には誰もいず、一つ、二つの人家と井戸が見えるだけで、何も変わったことは無かった。


「どうしました?」


 此処で初めて、店を出てから彼女が口を開いた。それはやはり、ふうわりとした口調で、歌のようで。私は心地好く、その六つの音を大切に聞いた。


「いや、何でも無いんだ」


「そうですか?」


「ああ」


「もうすぐですよ。私、どうしても最後にあなたと、あの沼を一緒に見たかったんです。あ、そういえばお名前をお聞きしていませんでしたね」


 私は彼女の言葉の前半の意味を尋ねるより早く、自分自身に問い掛けていた。私の名は何なのか? と。黙り込んでしまった私を不思議に思ったのか、彼女が少し首を傾げて問う。


「何か、あるんですか。やはり」


「やはり、とは?」


「いえ。先程、ふと振り返ったりされていたから、私と一緒に行くことは嫌なのかと思いまして。無理を言ってしまったのかと」


「いや、そうじゃないんだ。ただ、その」


 言い淀んだ私の言葉の続きを彼女が待っていることは良く分かる。しばらく、私達二人分の足音と、時々吹く風の音だけが辺りに響いた。


 正直に言えば、私は迷っていたのだ。彼女に真実を話すことを。すなわち、自分の名前を忘れてしまったということを。


 灰色の彼や、特に朽葉から聞いた説明で、私はもうだんだんと分かり始めていた。此処が、この町が、普通では無いことを。そして私は自らの名前も帰るべき場所も忘れてしまっている。帰るべき場所があったのか否かすら、分からないのだ。これが普通であるわけが無い。


 考えようとすれば、すぐに頭の中には白雲のようなもやが立ち込め、思考することを阻害するようにそれは朦々もうもうと広がって行く。だが、おそらく私は考えなければならない。考え続けなければならないのだ。それがきっと、おそらく「振り返る」ということなのではないかと、私なりに解釈している。振り返ること――すなわち、思い出すということだ。私が今、此処にいることになっている経緯を。記憶を。過去を。そして此処に来て失ってしまった、私の名前を。


 こんなことになるのなら、意地を張らずに灰色の彼に自らの名を告げておけば良かったと、今になって後悔が募る。名前など記号に過ぎないと言って教えてくれなかった彼に対抗して、私も彼に自らの名前を教えることはしなかった。あの時の私は間違い無く、自分の名前を覚えていたのだ。もしも、彼に私が名前を伝えていたら。今の私に、彼が私の名前を伝えてくれたかもしれない。そして、私は私のかけらでも取り戻すことが出来たかもしれない。それは振り返り、思い出すという行為の手助けになってくれたかもしれないのだ。


 名前など記号に過ぎないという彼の言には、確かに一理あると思った。今も、それは変わらない。大切なことは本質であり、表面にあらわれている名や状況では無いのだ。だが、自らの名を失うことが、名を思い出せないことが、今、こんなにも苦しい。確かに私のものであり、私を表すものであったそれは、少なくとも今、私の中の何処にも無いのだ。そして、取り戻せるのかも分からない。その不安、悲嘆、苦痛。これを一体、私はいつまで続ければ良いのだろう。いつ頃、帰ることが出来るのだろうか。


「あの、間違っていたらごめんなさい。もしかして、あなたはご自分の名前をお忘れではありませんか?」


 急速に視界が開けるようにして彼女の言葉が私の脳裏に入り込む。彼女は足を止めず、心なしか下を向いて、そう言った。私は、その祈りのような優しい響きを持つ言葉に逆らえなかった。私は頷く。そして言った。その通りだと。覚えていた筈の自分の名前が数日前から、どうしても思い出せないと。


「そうでしたか。不躾ぶしつけに尋ねてしまって、すみませんでした」


 謝る彼女に私は首を振った。彼女が謝ることなど、何一つとして無い。知らない者の名前を尋ねただけだ。それを告げることの出来ない私こそが謝るべきだろう。


「いや、こちらこそすまない。私は正直に言うか言うまいか迷っていたんだ」


「いいえ、謝るのは私です。不躾ぶしつけな質問をしてしまったこともそうですが。実は、春野華というあの名前は、ただの私の憧れに過ぎないのです。私もとうに自分の名前は忘れてしまいました。ただ、私の場合は忘れたかったのかもしれません。全て、全て忘れて、此処で生きてみたかったのです。新しい場所、新しい仕事、出会う人々。此処は不思議な所です。誰にも拒まれない。それ所か仕事を手配してくれ、私が此処で生きて行けるようにしてくれた。だからもう、私は私の名前のことなど、もうどうでも良かったのかもしれません」


 思わず、私は彼女を見つめていた。


「でも、あなたはそうではないようですね。それならば、まだ可能性があります。どうか諦めないで下さい。身勝手なお願いかもしれませんが、私に出来なかったことをあなたにはして貰いたいなと思っています。あんなに素敵なお話を聞かせてくれたあなたを、私はとても好きになっていたんです。いつの間にか。本当に、いつの間にかのことでした。そういえばいつか、あの灰色の猫のような生き物が、あなたを止めましたね。私の差し出した菓子を食べることを」


 蘇る、緊迫した場面。私を止める灰色の彼と、其処へ現れた白い猫のような生き物と、菓子商店の女主人。思えば違和感を覚えたのは、あの時が最初だったかもしれない。菓子商店は華やかで、中にある店の数も多くて、それぞれに猫のような生き物がいて、少し不思議で少し興味深くて。惹かれていなかったとは言えない。店にも、彼女にも。


 だからこそ私は菓子商店に通い、彼女――春野華の笑顔に、会いに行った。そして彼女の望むまま、二度、話をした。それを彼女は書き留めていた。いつか物語草紙を出版したいと言っていた彼女の語る声と表情を、ありありと思い出す。


「二度、私に話をしてくれましたね。良く聞いて下さい。もうご存知かもしれませんが、此処では完全トーティエント数が重要です。つまり、三という数字が。此処では三という数を口にすること自体が禁じられていると言っても過言ではありません。暗黙の了解とでも言うものでしょうか。そして、その数に達し、超えることが」


 どっと強風が吹き、彼女は一度、口をつぐんだ。彼女の美しい夜のような黒髪が大きく揺れて彼女の顔を覆い隠す。その風の勢いに、私は思わず目をつむった。そして、やがて収まりつつある風の隙間に目を開けてみれば、そこに彼女の姿は無かった。影も形も、文字通り消えていた。


「春野……華?」


 冷や汗が出る。本当の名前では無く憧れの名前だと告げた彼女のそれを、私はそっと呼んでみる。答える声は、まるで当然のように無かった。


 ――初めから彼女は此処にはいなかった。


 誰かにそう言われたような気がして、急激にぞくりとしたものが私の背筋を這い上がることを感じた。

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