第七章【消失】1

 朽葉の貸し本屋での勤めの二日目。昨日同様、昼少し前に私はその表戸を開ける。


 朽葉は左奥の書棚の前、漂うようにして其処にいた。私に気が付き、くるりと振り返ったその表情は、気のせいか少々、難しい様相をていしているように見えた。灰色の彼も朽葉も、あまり目に見える程の表情変化が無いので分かりづらいのだが、その時の私の目には、戸惑いと苦悩を溶け込ませた色を一滴だけ表面に滲ませたような、そんな表情に見えたのだ。


「何事か、あったのか」


 私の問い掛けに朽葉は首を横に振った。


「いや、何でも無いよ。今日も昨日と同じ感じで、よろしく頼むよ。僕は奥にいるから、何か困ればいつでも言って。あと、お茶を淹れておいたから良かったら飲んで。それじゃあね」


 私が茶の礼を言うよりも早く、朽葉はふいと奥の間に飛んで行ってしまった。何処か彼にしては性急な気がする。やはり、何かあったのだろうか。


 私は朽葉の飛び去った奥の間から、先程、彼が浮遊していた辺りへと視線を移す。その書棚の前に立ってみると、一箇所、本と本の間が不自然に空いている。其処で私は思い当たる。昨日、確か少女はこの書棚から本を借りて行ったということを。貸しても問題は無かったと朽葉は言っていたが、何か思う所でもあったのだろうか。


 もしも、私を気遣ってそういう風に述べたのならば申し訳無いことをした。そういえば、本の貸し出し期間というものは何日間に当たるのだろうか。いつ頃、あの少女は返しに来るのだろう。


 私は受付台に座り、朽葉が淹れてくれたという緑茶を飲みながら考えた。しかし、仮にも此処で働く者が本の貸し出し期間すら把握していないということはいささか問題なような気がした。規程などを綴った帳面などは無いのだろうか。


 勝手に開けて良いものかどうか少し気後れしながらも、私は右手前の引き出しを開けてみる。きしきしと古い音をさせつつ開かれた其処には、藁半紙わらばんしの束がぎっしりと詰まっているだけであった。引き出しを閉める。また、同様の音がした。


 引き出しをちょうど閉め終わった時、控えめに貸し本屋の表戸が開かれる。僅かの間を置いて入って来た者は昨日の少女――春野華であった。身に着けているものは昨日とは違う着物のようだが、色合いはとても良く似ており、やはり深く静かな沼を思わせる。彼女はその手に、一冊の本を携えていた。


「こんにちは。これ、お返しに来ました。どうもありがとうございました」


 彼女は真っ直ぐに私を見て、本を差し出した。


 私は返答し、帳面を開いて貸し出し記録を消す。気のせいだろうか、彼女から私の行動をじっと見ているような視線を感じた。筆を置き、顔を上げると彼女と目が合う。春野華は、にこりと笑った。


「この町の北にある沼の話、覚えてますか?」


 唐突に言われ、私は戸惑いながらも「ああ」とだけ言った。


「私、やっぱり見に行きたいんです。一緒に来てくれませんか? 勤めが終わってからで良いんです」


「沼、か。そんなに美しいのか?」


「美しいとは少し違うかもしれませんが、見て損は無いと思いますよ。私、実は明日でこの町を出るんです。そうしたらしばらくは故郷にいるつもりなので、見ておきたくて。思えば、此処で何年か菓子商店で働いて来たものの、一度も見たことが無かったんです。思い出を、作っておこうかなと」


 其処で彼女は言葉を切り、此方の反応を窺うように丸い瞳を改めて私に向け、二、三度、瞬きをした。烏の羽のように黒く、しとりと濡れたように見える黒髪を耳に掛けて、彼女は私の返事を待っている。


「店仕舞いの後で、構わないなら」


「ありがとうございます。何時頃でしょう?」


「多分、夕刻くらいかと」


「分かりました。大体、その辺りにまた来ますね」


 再び彼女は笑い、軽くお辞儀をして店を出て行った。表戸が静かに閉められる。


 ふと帳面に目を落とすと、昨日同様、彼女の名前が目に入る。春野華。聞き覚えも見覚えも無いその名が、どうしてか私の注意を引き付ける。


 名前と言えば、私は私の名前を思い出せる日が来るのだろうか。私は、だんだんと焦燥を覚え始めていた。それは空気に触れた血液のような黒を孕んだ赤い炎で、私の足元をじりじりと焼いて行く。


 正しく振り返ることが重要だと、灰色の彼と朽葉が言った。だが、正しく振り返るとはどういうことだろう。いや、此処までの道筋を思い出すことだということは彼らに言われて漠然とだが、分かっている。


 だが、私は思い出せない。思い出せないということが、どれ程に恐ろしいことであるか、どう言えば分かって貰えるだろう。忘れたことすら忘れている、遠い昔日の思い出であれば、まだ良かった。


 人は忘れて行く生き物だ。忘却は程度の差こそあれ、誰にでも静謐せいひつに、雪のように降り注ぐ。名前を含めて私が全てを取り戻しても、それでも忘れていることは少なからずあるだろう。それは仕方無い。ある意味では当たり前のことだ。


 だが、此処に来た経緯を、私はほんのかけらも思い出せない。あなたはずっと以前から此処に住んでいたのですよと言われれば、ああ、そうだったのかもしれないと頷いてしまう可能性を否定出来ないくらいには、私は私の存在に自信がいだけない。


 そして最近になって、私は私の名前を失った。思い出せない。思い出せない。思い出せない。思い出せないということが悲しく、恐ろしく、そして苦痛だ。いっそ、思い出せないという現実を忘れてしまえば、私は解放されるのだろうか?


「今、お客さん、来てた?」


 はっとして声のした方を見ると、いつの間にか朽葉が右隣でふわふわと浮遊しつつ私を見ていた。


「すまない。もう一度、言ってくれないか」


「お客さん、来てた?」


「あ、ああ。来ていた。これを返しに来たんだ」


 朽葉は私の示した書物に目を落とす。そして、すぐに私を見た。


「これ、読んで。此処で読んで構わないから」


 朽葉の言わんとする所を計り兼ねて私が黙っていると、


「そんなに難しい本じゃないから。読んでほしい。本は嫌い?」


「いや、嫌いでは無いが」


「じゃあ、読んで」


「分かった」


「僕は奥にいるから」


 そして、また朽葉はふよりと奥の間の方へと行ってしまった。何か用があったのではないのだろうか。そう思いながらも私は手元の本を見遣る。それは朽葉が私に探してほしいと頼んだものだ。私に読ませたくて、そう告げたのだろうか。


 客の来る気配は無かった。と言うよりも、外を歩く人の気配がひどく希薄だった。遮断された、切り離された浮き島にでもいるかのような気分になる。私は、その静寂の漂流に身を任せるようにして書物の表紙を捲った。

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