第六章【再会】5

 彼女は本当に、あの時の売り子なのだろうか。疑問や違和感を覚えるのは服装のせいかもしれないとも思う。


 私が今までに見た彼女は菓子商店での姿だけだ。動きやすそうな着物に白地の前掛けを腰から身に着けて、三角巾を結んで。春に咲く野原の花のように笑い、菓子を勧め、私の話に耳を傾け、それを書き留めた。其処まで考えて、ああ、春という共通点があると私は気が付くに至った。菓子商店で、彼女は春の花のように笑った。そして先程、此処の貸し本屋で彼女は春の陽射しを思わせる、ゆったりとした穏やかで暖かさすら思わせる所作を呈していた。


 だが、と思う。その笑顔は決して私の記憶にあるような、春の花のようでは無かった。美しくも少々恐ろしい、冴え冴えとした冷たい月のような笑顔だった。それは菓子商店にいた彼女のものとは似ても似つかず、また、その彼女からは想像するのも難しい程のものであった。本当に彼女は――春野華は、私が会ったことのある彼女なのだろうか?


 春野華。私は再び手元の帳面を見、その名前を目に映し込む。私の思考に幾度も生まれた「春」という一文字が、れっきとした存在感を放つようにして其処に佇んでいる。はるのはな。はるの、はな。春の、花?


 唐突に私はその名前にすら疑問を持ち始める。菓子商店で出会った彼女についての私の記憶に照らし合わせたように、その名は其処に書かれている。名はたいを表す、とは言え、これは如何にも出来過ぎではないだろうか。否、別段、珍しい名前では無い。私の考えすぎかもしれない。私は少しばかり疲れているのかもしれない、少し前に会ったことのある人間が服装を変えて訪ねて来ただけで本人と分からないくらいに。


 ――本当に?


 私は思考するたびに疑念に取り憑かれる。この町に来てからというもの、今のように考えがまとまらないということはしょっちゅうだ。まとまったことなどあっただろうかと思ってしまうくらいに。だが、私は考えるということをもう諦めてはならないように思っていた。


 不意に朽葉の言葉が蘇る。


 ――おそらく流れというものが君を最終地点まで押し流そうとする。元へ帰りたいのなら、それに従ってはいけないよ。


 そう、朽葉は言った。


 そして、灰色の彼は出会った当初から幾度も繰り返した。


 ――振り返れ。


 辿って来た道筋を正しく振り返り、理解し、正しく戻ること。それが私がすべきことであり、最優先事項であるように私は捉えている。これは灰色の彼と朽葉の二者から学んだことだ。私は戻りたいのだ。何処とも知れぬ、私の故郷へ。その為には、紛れも無い私のものである筈の記憶、私のものである思考を有耶無耶うやむやにしてはならない。


 私は、もう一度、彼女と話をしてみようと思った。彼女が本を返しに来る、その日に。


 目蓋の裏側に先程の彼女の姿が行灯あんどんの明かりのように思い浮かぶ。沼の底のような深く暗い碧と紺を混じり合わせたような着物の色がいやに印象的で、それが畏怖いふを思わせる程に美しい笑顔と重なってゆらりと波のように揺蕩たゆたう。その波間に溺れそうな私を引き戻すかの如く、背後から、聞き慣れた声が不意に私に掛けられる。


「お客さん、帰った? もう店仕舞いしようか」


「ああ。そういえば、いつもは何時くらいまで開けているんだ?」


「特に決めてはいないんだけれど、大体、日が傾いた頃には閉めているかな。お客さんがいればその限りではないけれどね。でも、滅多に来ないから。今日は珍しかったね」


「そんなに人が来なくて儲けはあるのか?」


「それなり。それに、多くのお金を得る必要は無いからね、此処では。それでなくても僕らは――ああ、君が灰色の彼と呼ぶ者もそうなんだけれど、僕らは食べなくても過ごして行けるんだ。だから、さして困らない」


 告げて、朽葉はふわりと私の近くまで舞い、そういえば頼んでいた本は見付かった? と尋ねて来た。


 私は少し躊躇いながら、その本を先程のお客に貸してしまったことを告げる。貸して良いものかどうか迷ったのだが、と言い訳のように付け加えて。


 朽葉は黙ったまま受付台の上に開かれたままになっていた台帳を見つめる。そして、私の見間違いで無ければ一瞬、小さく震えたように思える。


「朽葉? やはり駄目だっただろうか、貸してしまっては」


「いや、そんなことは無いよ。此処にある本で、貸し出し禁止の物には札を付けている。これは、その類いでは無いし……」


 不自然に朽葉は言葉を切った。何処か考え込む風を見せ、顔を上げぬまま、朽葉はじっと台帳に視線を落としたままだった。


 ぼわりとした行灯あんどんの明かりが徐々にその光を強くして行く。いや、外が暗くなっているのだ。ややあって、はっとしたように朽葉は私を見て言った。


「ごめん、遅くまで。今日のお客さんは、この一人だけ?」


「ああ、そうだ」


「じゃあ、あとは僕がやっておくから。そうは言ってもほとんどすることは無いけどね。お疲れ様」


 若干の引っ掛かりを覚えながらも、私はその日、朽葉の貸し本屋を後にした。


 そして、この町での住まいとなっている家に戻ると、いつもの定位置で灰色の彼はとうに眠りに就いていた。


  静けさで満たされた家屋の中が、どうしてかほんの少しだけ、物足りないように思える。どうしてだろうか。その疑問に答える私は私の心内には存在しない。事柄を有耶無耶うやむやにしたくないと思ってはいても、取っ掛かりすら無い感覚はどうすることも出来はしない。


 私は部屋に入り、床に就く。その暗闇の中心で、短くも強烈な内容を記した朽葉色の本を思い出す。同時、禍々しい程の猩々緋しょうじょうひと金色が朽葉色を飲み込むようにして混じり込む。目を閉じた後も、それは続いた。

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