第三章【遭遇、降雨】8
途端、まどろみの中を泳いでいたような私の意識が引っ張り上げられた。目線を下げると、濡れ鼠のようになった彼が今朝のように瞳を開けて其処にいた。そして彼は間違い無く、菓子商店の店主を見ている。いや、睨んでいると言った方が的確かもしれない。鋭く磨かれた闇夜のような視線を射るように注いでいる。
「何用だ」
低く、彼が言った。
「ご挨拶だね。私は話があって来ただけさ。もう用は済んだ。お前にも言いたい事はあるのだが……」
二者の間に沈黙が生じる。重圧のある空気が流れた。
「またにするよ」
「おい。あいつに何を言われた」
足元の彼が私を見上げて尋ねる。その両目には、幾らか和らいだとは言え、未だ牙のような鋭利さが湛えられたままであった。
私は気圧されながらも、菓子商店で売り子をしないか提案された事を伝えると、それでどう返答したのかと更に尋ねられる。私は彼に体を拭くよう布を差し出し、返事はまだしていない旨を話す。彼は安堵したように一つ大きく息を吐き出した。
「それで、他には? 何か余計な事を言わなかっただろうな」
「余計な事?」
「そうだ。さっきはまさにそれを言おうとしていただろう。私がお前に注意して行かなかった事も悪いが」
彼は布をぐるぐると全身に巻き付け、それをぎゅっと自らに引き寄せるようにして水を吸い取らせると、ぱさりと落とす。そして大きく体を震わせた。雫の
「私が、あの本を借りて来た事は内密にしろ。貸し本屋でも本来、門外不出の書物となっている。無理を言って借りて来たのだ。お前の為に」
ひょいと土間に上がり、彼は私を改めて見る。
「出掛けにも言ったが、どうしてあれを私に借りて来たんだ?」
「……本当に、分からないか」
微動だにせず、彼は呟くように問い返す。私は思わず息を飲んだ。
まるで全てを見通しているとでも言うかのような彼の闇夜の瞳が、私を引き寄せ続ける。私もまた動く事が出来ず、其処にいた。風がページを捲るようにして書物の内容が私の脳裏に蘇る。
「私が昨日見たものは、夢では無かったのか」
しばらく後、知らず俯き、私は半ば独り言のようにそう言った。
見た事も無い、山のように巨大な
気付いているかもしれないが。そう、前置きして彼は続けた。
「あれは体験記だ。昔、此処を訪れた人間が書き残した。それは禁じられた行為だ。お前はまだ知らないと思うが、此処では幾つかの決まり事がある。その一つに、『此処での一切を書き記すべからず』というものがある。それを知った上で、その人間は原稿を書き、書にまとめた。勿論、誰に言うつもりも無かった。それは、ごく個人的な手記のような、趣味のようなものだったのだ。だが、禁は禁。どんなつもりであろうとも例外は認められない」
彼は言葉を切る。顔を上げると、瞬きのない瞳が私を縛る。私は、恐る恐る続きを尋ねた。
「それで、その人間はどうなったんだ」
「死んだよ。もう遠く昔の話だ」
「……殺されたのか?」
「そう表現しても差し支えは無い」
身が凍る思いとは、まさにこういう事だろう。私は背筋を急速に這い登って行くものがあった。しかし、今の話と私が、どのように結び付くのだろう。私もいずれ、その人間のように殺されると――彼はそう言いたいのだろうか。すると、私の胸の内を見透かしたかのように彼は再び口を開いた。
「お前が禁を犯しさえしなければ、殺されるなどという事は無いさ」
「禁と言われても、私は何一つそれを知らないのだが……」
「言葉で直に伝えられるものではない。追々、分かって行くものだ。此処で過ごしていく内にな。或いは、こうして私のように語る者がいれば例外となる」
私は、其処で水に打たれたように意識を集合させる。今まで彼は多くを語らなかった。それがどうしたという事だろう、今の彼は非常に饒舌で、全貌とまでは行かないまでも明らかに核心に迫る話し方をし、私に情報を与えていた。
私は、彼の身を案じた。先日の出来事が思い返される。菓子商店で、彼は私が試食しようとする行為を止めた。それはまるで、私を庇うような守るような、そういった心情がありありと見えるものだった。
そして、店に座る白猫は言った。「どのような理由があろうとも禁じ手は禁じ手」と。もしかして彼は、この町での決まり事を破っているのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます