第三章【遭遇、降雨】9

「なあ、大丈夫なのか。そういう事を私に話して。今までお前は私がどんなに尋ねても教えてくれない事がほとんどだった。私だって馬鹿じゃあない、何かしらの理由があって答えられないのだろうとは思っていた。それに、この町が何処か普通では無い事も、おぼろげにだが分かる。その思いは昨夜の事と、読んだ書物の内容によって強くなった。そして今、お前から少しだが話を聞く事が出来た」


 彼の視線が私を底無しの沼から急速に引き上げる。もう助からないと思っていた私の目の前に、一本の緑深い草が垂らされている。私はそれへと必死に手を伸ばす。どろどろと濁る水が視界を阻む筈なのに、どうしてか、たった一本の緑が何よりも美しくまばゆく見える。


「情けないかもしれないが、私には良く分からないんだ。違和感はある。私はいつ頃、何処でどうしていたのだろう。何故、此処にいるのだろう、と。だが最近では、違和感を覚えている事がおかしいのではないかという心地すらしている。私は、もうずっと前から此処にいたのではないだろうか。本当ならば見知った町並み、本当ならば見知った人々で。もしかしたら、お前ともいつか出会っているのかもしれない。私が思い出せないだけで。


 そして、その不透明な部分は、あの菓子商店に隠されているのかもしれない。私が其処で働く事で、少しずつでも思い出して行けるのなら私はそうしたい、いや、そうするべきなんじゃないだろうかと。そんな風に、思うんだ。なあ、これは間違いなんだろか。考えようとしても、いつも何かもやのようなものが脳の中に張り出して、うまくまとまらないんだ。この日々が、とても落ち着かない。私は、これからどうしたら良いのだろう」


 言ってしまうと、私は自分がひどく小さな生き物のように思えて仕方なかった。羅針盤がないと何処にも進む事の出来ない、寄る辺のない子供のような。


 私は元来からこういった人間だっただろうか。他者に意見を求めないと動き出せない者だっただろうか。そう自身の内側へと問い掛けてみても、明確な答えは得られなかった。それすらも私を苛立たせる。


 どんな人間でも持ち得るであろう芯を、私は何処かへ置いて来てしまったように思えた。喩えるなら、価値観や判断基準。もっと言ってしまえば、感情。それらの全てとは言わずとも、少なからずこれらが本来の形を失っているであろう事は曖昧にだが認識出来た。そうでなければ、この不安の正体に説明が付けられない。何が正しく、何が間違っているのか、その境目を私は見定める事が出来なかった。


 外では未だ大きな雨音が響き、それが私の焦燥を加速させる。


「察しの通り、私からお前に話せる事は、ごく少ない」


 床から僅かの所を浮いていた彼は、空気を震わせる事無く羽のように静かに下りた。その目は先程よりも微かに伏せられ、躊躇いの心情が見て取れる。


「正直に言えば、私が今日話した事は全て禁制に触れる。この町の事は、この町に住む者が各々の身で以て知って行く事。それが暗黙の了解となっている。よって、このように私が特定の人物に対し町について語る事など許されるわけも無い。今日、店主が来ていただろう?」


「ああ、お前にも話したい事があると……」


「おそらく忠告しに来たのだ。これ以上の出過ぎた真似は許さないと」


 更に彼の両眼は伏せられる。反して、私の目は自然、見開かれて行った。


「許さないって、どういう事だ。まさか、お前も」


 いつか此処を訪れた人間のように?


「そう、遠い事では無いかもしれないと私は思っている。今までもこういう事は何度かあったが――此処まで及んでしまったことは今回が初めてだ。もともと、私を快く思わない者達もいる。あの白猫もそうだ。私が僅かながらにでもお前の手助けを出来るのは、もう残り少ないかもしれない」


 何処か諦めたように力無く呟く彼は、私の見た事のない姿だった。飛び出ている耳も心なしか垂れ下がり、いつの間にか両目は縫い針のように細くなってしまっていた。


「どうして、そこまでしてくれるんだ。私とお前は会ったばかりの筈だ。それとも私が覚えていないだけで、いつか何処かで出会っているのか」


「いいや。私とお前が邂逅かいこうしたのはお前がこの町に来た最初の日、それが正真正銘の真実だ」


「ならば、尚更だ。どうしてここまでしてくれる? 自分を危険に晒してまで」


 私の問いに彼は沈黙した。答えられないと、そういう事だろうか。確かに今日、彼は今までに無い程、多くを語った。もう限度量を遥かに超えているのかもしれない。やはり答えなくても良いと、私がそう言おうとした時だった。


「お前が、私に似ていたからだ」


 蜉蝣かげろうの如き儚さで彼は小さく零した。それは耳を澄ませていなければ聞き取ることの出来ない――まして、このような大雨の降る日には――消えてしまいそうな声だった。


 彼は完全に目蓋を閉じて、少し眠る、と付け足した。私は、ああ、とだけ返した。


 まるで私たちを閉じ込めるかのように、翌日も雨は降り続けた。

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