第三章【遭遇、降雨】7

 ――雨は降り続いた。まるで終わる事など無いかのように。耳の奥にまで届けと言わんばかりに連続する雨音は、私の心臓を強く揺さぶるようでひどく落ち着かない気分にさせる。


 朝餉あさげを取る気にもなれず、着替えだけを済ませて私はただひたすらにじっとしていた。考えるべき事はとても多いように思う。しかし、思考をまとめようとするといつものようにそれは決してうまく行く事が無く、焦りだけが募る。


 私は、彼が帰って来るのを待っていた。彼は、多くを語らない。此方から尋ねてみても、それは彼自身のふよふよとした空中歩行のようにかわされてしまう。先程の書物についてもそうだ。何か知っている素振りを見せつつも彼は私に伝えない。間接的に私に理解させようとしている意思は見受けられるものの、核心には迫らない。迫れない。


 私は、彼が戻って来たらせめてあの書物についてだけでも問いただしてみようと考えていた。未だ、雨は止まない。


 その時、どんどんと戸を叩く音がした。はっと顔を上げると、再び戸は同じ調子で叩かれる。彼が戻ったのかと腰を上げたが、戸の向こうに浮かび上がる輪郭は彼ではなかった。人間の姿であった。


「どちら様ですか?」


「突然に失礼する。菓子商店の店主だ。相談したい事があって参じた。少し時間を貰えないだろうか」


 菓子商店の店主。私は困惑しつつも引き戸を開ける。其処には射干玉ぬばたまの如き黒髪を緩く結い上げ、艶やかな紅緋べにひの着物に身を包んだ女性が一人、美しく細い笑みを湛えて真っ直ぐに立っていた。


「お邪魔しても構わないか?」


 私は少しの逡巡の末、頷いた。外は強い雨風、無下に追い返す事も出来かねたからだ。追い返す? 私は自らの思考に疑問を抱く。


 彼女は静かに傘を畳む。その体は、ほんの少しばかりしか雨に濡れてはいなかった。それでも、ぽとりぽとりと、髪の先や袖の先から雫が落ち、土間に小さく染みを作る。私が差し出した布を受け取り髪を軽く拭いて行くその様子を、私は何処か底知れぬ感情を持って見つめていた。


「今日は、お前さんに相談したい事があってね」


 優雅な仕草で彼女は座布団に座り、そう切り出す。私は曖昧に返事をする。


「その前に。この町には、もう慣れたかい」


「ええ。それなりには。まだ分からない事の方が多いですが」


「そうだね、確かにこの町には理解の及ばない不可思議な所が多いだろう。私も長く此処に身を置いているが、今でも知り得ない事もある。そこで、物は相談なんだけれどね。お前さん、菓子商店で働いてみないかい」


 女店主は探るような目で私を覗き込むように見た。


「働くというのは、あの商店で売り子として、という事ですか?」


「ああ、そうさ。何、難しい事じゃあない。慣れない内は戸惑う事もあるかもしれないが、基本的には接客、菓子の販売だ」


「何故、突然そんな話を?」


「ああ、性急だったかね。先程の話に繋がるのだが、この町には理解し切れない事が色々とあるだろう? それも、此処で仕事を持って、この町の人々に接する事で分かって行く事もあるのではないかと思ってね。あとは、単純に人手不足なのさ。先日、一人辞めてしまったから代わりの者を丁度探している所でね。どうだい、やってみないかい?」


 私はすぐに返答出来ず、考え込む。すると見透かしたように女店主は言った。


「何も今すぐに決めなくても良い。数日考えて、返事をくれないか」


「ええ、分かりました」


「ついでに話しておくと、この話をお前さんに持って来たのは他にも理由があってね。お前さん、気に入りの店があっただろう? 辞めたのは其処の売り子なんだ。だから興味も湧くのではないかと思ってね。私としても、その店を気に入ってくれている人間に任せたいのさ」


「辞めたんですか、あの子が?」


 驚きのままに私は言った。思えば、私は彼女の名前も知らない。春の野原に咲く、花のように笑う彼女。


「ああ、昨日辞めてしまった。故郷に帰るそうだ。良く働いてくれていたから私としても残念だよ」


「そうですか……」


「それでは私はこの辺で失礼するよ。先の話、考えておいておくれ」


 衣擦れの音と共に女店主は立ち上がり、そう告げた。


「ああ、そういえば。あいつは不在かい」


「あいつ?」


 朱塗りの塗下駄ぬりげたを履き、ふと思い出したように店主は振り返り、尋ねる。


「お前さんと共にいる、あいつさ」


「もしかして、灰色の座布団みたいな生き物の事ですか?」


「座布団とは。言い得て妙だね」


 店主は鈴の音のように笑い、そいつはいないのかい、と再び尋ねる。


「今朝方から出掛けていますよ」


「何処に行ったか知っていたら教えて貰えないか。あいつにも話したい事があってね……」


 引き戸に手を掛け、彼女は薄く笑う。


 一瞬、私は自らを剥離されたかのような錯覚に陥った。あるいは、急速に自分以外の何もかもが遠ざかったような感覚。私は誘われるように口を開く。


「彼なら、本を返しに」


 其処まで言った時、唐突に引き戸が大きな音を立てて開かれる。大きく響く雨音、風音が室内に侵入する。

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