第二章【完全トーティエント数】4

「面白い話とは言っても、昨日のような話で良いのだろうか。君の求めている面白さとは違ったら申し訳無いし、多少なりとも望んでいるものについて具体的に言って貰えると助かるのだが」


 少し考えてそう切り出した私に、彼女はにこりと笑って答える。


「昨日のお話、とても面白かったです。私は今まで様々なお話を此処で聞いて来ましたが、あなた様が話してくれたようなお話は初めて聞きました。良かったら今日も、そういうお話だと嬉しいです」


 少し身を乗り出し、熱のこもった様子で彼女は語った。


 私は、それでは、と前置きして今日も一つの話を彼女に伝えることにした。


「――私の祖父の体験した話なんだが。祖父の趣味の一つに釣りがある。良く晴れ渡った日の昼前、祖父はいつものように近くの河川敷へ釣りに出掛けた。本格的な夏を迎え、川の水温が上がる、沙魚はぜ釣りには適した時期。祖父は毎年、この頃を楽しみにしていた。何度も来ている場所であるし、もう慣れたもので、祖父は釣れそうな所をゆっくりと探す。やがて腰を下ろし、沙蚕ごかいを針先に通して当たりを待つ。周りには、やはり沙魚はぜ釣りが目的と思われる釣り人が何人かいた。


 やがて竿を引く手応えを覚え、祖父はタイミングを見計らって竿を上げる。先には小さな魚が下がっていた。目当ての沙魚はぜである。沢山釣れたら天ぷらにして食べようかと、祖父は再び釣り糸を垂らす。その後も続々と沙魚はぜは釣れた。そして、やがて太陽が天の中心を過ぎる頃、魚籠びくの中は小さな沙魚はぜでいっぱいになっていた。


 此処までは何ら変わったことも無く、例年の通りの出来事だった。祖父は何も警戒などしていなかったし、不安も捉えていなかった。


 だが、そろそろ帰ろうかと魚籠びくを持ち、立ち上がろうとした時、異変は起こった。河川敷に置いていた魚籠びくが少しも持ち上がらないのである。まるで根が生えたように、それは少しも動きはしない。祖父は驚き、持ち手を何度か引っ張り上げるようにして何とか持ち上げようとする。しかし、それは叶わない。


 祖父は一度、腰を下ろして魚籠びくの底面付近を外側から確かめてみた。傍目にはおかしい所など見当たらないのだが、やはりそれは地面から剥がれることが無い。今度は、魚籠びくの内側から底を確かめてみようと、祖父は中を覗き込んでみた。けれども先程と変わり無く、多くの沙魚はぜが所狭しと動いている様子が目に映るだけだった。


 どうして魚籠びくが持ち上がらないのだろう。祖父は不思議に思い、また、好奇心も手伝って、そのまま底へと片手を伸ばしてみた。祖父の手に何匹もの沙魚はぜが、魚特有のぬめりを以て絡み付く。その時だった。底が無いと気付くと同時、祖父は魚籠びくの中にぎゅるりと吸い込まれてしまった」


 え、と小さく彼女が声を発したのが聞こえた。見ると、彼女の筆を動かす手は止まり、驚愕と期待の入り混じった表情で私を真っ直ぐに見ている。私が僅かに微笑むと、彼女も承知したように頷き、筆にそっと墨を付けた。


「祖父が吸い込まれた先は、おそらくは海か川の中であった。それも透き通るような美しい水の中では無く、砂利や泥が朦々もうもうと巻き上げられている、濁った水中。


 視界は悪く、何よりも強くなって行く息苦しさが祖父を焦らせた。とにかく此処から出なくてはと祖父は頭上を仰ぐ。だが、舞い上がる泥は視界を覆い、慣れぬ浮遊感は動作を鈍らせる。手で水を掻いてみても、変わらず濁った水が眼前に広がり続けるだけ。とにかく地に上がらなくては、それだけが祖父の頭を占める。


 そこへ、ひどく唐突に一条の細い光が差し込む。混濁した水中から祖父を救い出そうとでもしているかのように、その光は煌々と存在を主張する。減って行く酸素に焦りを抱え、祖父はその光を目指してもがくように泳ぎ進んで行く。


 だが、辿り着いた祖父は愕然とした。光と自身との距離はほとんど無い所まで来て、祖父はそれが、ある集合体だと分かったのだ。それは何か? それは、先程まで釣っていた沙魚はぜであった。濁り切った水の色をした小さな沙魚はぜが、螺旋を描くようにぐるぐると一条の線のようになって泳ぎ続けていたのだ。そこ有るのは太陽光では無く、きらきらと光る魚の姿だった。


 祖父は一瞬、思考する力を奪われたように呆けてそれを見つめた。だが、すぐに自分の置かれている状況を思い出す。即ち、息がもうもたないということ。


 方向感覚すら失うほどの濁水の中、沙魚はぜの集合は水面から水底へと螺旋になって泳いでいるようだと見当を付けて、それを頼りに、祖父は上を目指した。目の前の泥水を背後へと追い遣るように掻いて、進む。その左隣で、限られた空間だけを許されたように、縦に細い柱のようになって回りながら沙魚はぜが泳いでいる。


 やがて祖父が思ったよりも早く、水面は祖父の頭上に広がりつつあった。自身の付けた見当が外れなかったことを喜びながら、祖父は全力で水を掻いた。口からぶくぶくと吐き出されて行く泡の勢いは徐々に弱まっており、もう限界が近いことを示している。


 だが、祖父はまたも異変に気が付く。水を掻く自らの指先の感覚が、とてつもなく薄く、頼り無いように思えたのだ。短時間とは言え、精一杯、水の抵抗に逆らい続けた結果だろうかと、もう余裕の生じる隙間など無い頭の片隅で祖父は考える。その間も、全身は水上を目指し続ける。


 しかしながら、此処に来て祖父は大量の酸素を意思に反して吐き出してしまう。何故なら、祖父の左右の両手、十本の指先はいつの間にか元の姿を失っており、それが祖父に与えた衝撃は計り知れなかったからだ。


 祖父の十本の指は全て、沙蚕ごかいという生き物に変わっていた。それは、さっきまで沙魚はぜを釣る為の餌にしていたもの。細長く、平たく、何処か人肉を思わせる。それは儚い珊瑚色とすすをまばらにまぶしたような消炭色けしずみいろが混じり合う、見慣れた筈の生物。その見慣れた筈の生き物が自分の指先から放たれている。緩慢にうようよと動いては水の中へと落ちて行く。次々と。


 そして、不意に沙魚はぜの集合体が、ゆやんと揺らぐ。濁った水の中でも明らかだった。沙魚はぜたちは祖父の放つ沙蚕ごかいを目掛けて確実に方向を変え、喰らう、という表現が最も相応しい様子で沙蚕ごかいを埋め尽くすように動き、食べている。祖父はそれを視界の隅で捉え、真実、恐怖を覚えながら水面に顔を出し掛けた。


 水面に顔を出す。結論から言えば、それは叶わなかった。恐ろしい程の勢いで祖父へと――厳密に言えば、祖父の放出する沙蚕ごかいにだったのかもしれないが――沙魚はぜの大群が迫り、一匹一匹は小さな魚である彼らが祖父の全てを喰らい尽くしてしまったからである。


 元は祖父の指先であったその場所から始まり、細い腕を這い上がり、肩へと到達、そこから方向転換し、心の臓を通り、内臓、足、足の先。それを祖父は、既に呼吸が出来ない頭一つで見るとは無しに見ていた。


 最後に、再び方向を変えた沙魚はぜの群れは、祖父の頭をいただきから淡々と食べて終わった。あとには、ほとんど何も残らない。微かな血のような肉の欠片のようなものが、行き場を見失ったかのように頼り無く寂しく漂うのみ。それを、まるでその小さな瞳に映し込み、確かめるように、沙魚はぜの集まりはほんの一瞬だけ動きを止める。そして、また元の螺旋形にゆるゆると巻き戻るように戻って行ったという。


 祖父は、自分は死んだのだと思った。もしくは、暑さにやられて倒れたのだと思った。そう考えた時の祖父の目には、不気味なほど鮮やかな紅緋べにひの色が落とし込まれていた。それが夕焼けの色だと気が付き、体を起こすまで、然程の時間は掛からなかった。


 だが、自分は今どうして此処にいるのか、今まで何をしていたのかを思い出すまでには、その三倍程の時が必要だったという。


 やがて少しずつ覚醒した頭で、家に帰らなければ、と祖父は口に出して言う。それは自分自身に言い聞かせるような響きでもあった。立ち上がった傍ら、時間の流れから取り残されたような魚籠びくが祖父の目に入る。それを、ごく自然な動作で持ち上げる。それは、ごく自然に持ち上がる。


 辺りに人の姿は無く、いるのは祖父一人きりであった。禍々しい程の夕焼け空が鏡の如く川面に映し出されている。自分の歩く方向とは反対へと流れて行く川の水を、どうしてか誰かの血のように祖父は思う。


 のちに祖父は、神の悪戯か、或いは鬼門でも開いたのかもしれないと語る。ただ、家に帰ろうと魚籠びくを持ち上げる時、その少し前に起きた筈の一連の出来事を忘れていたという。


 そして、もしも覚えていたのなら、あのように躊躇なく魚籠びくに手を掛けることが出来る筈が無いと。もしくは、あまりに恐ろしい出来事だったが為に意識の底に閉じ込めるようにして、あれは夢だと思い込んだのかもしれないと。


 どちらにしろ、本当の所は祖父にも私にも誰にも分からないまま。また、川の流れとは逆に帰路を辿る祖父の持つ魚籠びくには、ちゃんと沙魚はぜが入っており、その沙魚はぜを持ち帰り、天ぷらにして食べた時、祖父は針の先で指先を刺されたような痛みを覚え、しかし指からは血が出ていることは無く。


 そして少しの間の後、そこでようやく忘れていた思い出を取り戻すかのような感覚の中、こうして今、私が話した内容を蘇らせたに至る」


 私が言葉を切ると、彼女は筆を動かす手を止め、顔を上げた。そして、ほんの少しだけ首の角度を傾けてにこりと微笑む。

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