第二章【完全トーティエント数】4
「面白い話とは言っても、昨日のような話で良いのだろうか。君の求めている面白さとは違ったら申し訳無いし、多少なりとも望んでいるものについて具体的に言って貰えると助かるのだが」
少し考えてそう切り出した私に、彼女はにこりと笑って答える。
「昨日のお話、とても面白かったです。私は今まで様々なお話を此処で聞いて来ましたが、あなた様が話してくれたようなお話は初めて聞きました。良かったら今日も、そういうお話だと嬉しいです」
少し身を乗り出し、熱の
私は、それでは、と前置きして今日も一つの話を彼女に伝えることにした。
「――私の祖父の体験した話なんだが。祖父の趣味の一つに釣りがある。良く晴れ渡った日の昼前、祖父はいつものように近くの河川敷へ釣りに出掛けた。本格的な夏を迎え、川の水温が上がる、
やがて竿を引く手応えを覚え、祖父はタイミングを見計らって竿を上げる。先には小さな魚が下がっていた。目当ての
此処までは何ら変わったことも無く、例年の通りの出来事だった。祖父は何も警戒などしていなかったし、不安も捉えていなかった。
だが、そろそろ帰ろうかと
祖父は一度、腰を下ろして
どうして
え、と小さく彼女が声を発したのが聞こえた。見ると、彼女の筆を動かす手は止まり、驚愕と期待の入り混じった表情で私を真っ直ぐに見ている。私が僅かに微笑むと、彼女も承知したように頷き、筆にそっと墨を付けた。
「祖父が吸い込まれた先は、おそらくは海か川の中であった。それも透き通るような美しい水の中では無く、砂利や泥が
視界は悪く、何よりも強くなって行く息苦しさが祖父を焦らせた。とにかく此処から出なくてはと祖父は頭上を仰ぐ。だが、舞い上がる泥は視界を覆い、慣れぬ浮遊感は動作を鈍らせる。手で水を掻いてみても、変わらず濁った水が眼前に広がり続けるだけ。とにかく地に上がらなくては、それだけが祖父の頭を占める。
そこへ、ひどく唐突に一条の細い光が差し込む。混濁した水中から祖父を救い出そうとでもしているかのように、その光は煌々と存在を主張する。減って行く酸素に焦りを抱え、祖父はその光を目指してもがくように泳ぎ進んで行く。
だが、辿り着いた祖父は愕然とした。光と自身との距離はほとんど無い所まで来て、祖父はそれが、ある集合体だと分かったのだ。それは何か? それは、先程まで釣っていた
祖父は一瞬、思考する力を奪われたように呆けてそれを見つめた。だが、すぐに自分の置かれている状況を思い出す。即ち、息がもうもたないということ。
方向感覚すら失うほどの濁水の中、
やがて祖父が思ったよりも早く、水面は祖父の頭上に広がりつつあった。自身の付けた見当が外れなかったことを喜びながら、祖父は全力で水を掻いた。口からぶくぶくと吐き出されて行く泡の勢いは徐々に弱まっており、もう限界が近いことを示している。
だが、祖父はまたも異変に気が付く。水を掻く自らの指先の感覚が、とてつもなく薄く、頼り無いように思えたのだ。短時間とは言え、精一杯、水の抵抗に逆らい続けた結果だろうかと、もう余裕の生じる隙間など無い頭の片隅で祖父は考える。その間も、全身は水上を目指し続ける。
しかしながら、此処に来て祖父は大量の酸素を意思に反して吐き出してしまう。何故なら、祖父の左右の両手、十本の指先はいつの間にか元の姿を失っており、それが祖父に与えた衝撃は計り知れなかったからだ。
祖父の十本の指は全て、
そして、不意に
水面に顔を出す。結論から言えば、それは叶わなかった。恐ろしい程の勢いで祖父へと――厳密に言えば、祖父の放出する
元は祖父の指先であったその場所から始まり、細い腕を這い上がり、肩へと到達、そこから方向転換し、心の臓を通り、内臓、足、足の先。それを祖父は、既に呼吸が出来ない頭一つで見るとは無しに見ていた。
最後に、再び方向を変えた
祖父は、自分は死んだのだと思った。もしくは、暑さにやられて倒れたのだと思った。そう考えた時の祖父の目には、不気味なほど鮮やかな
だが、自分は今どうして此処にいるのか、今まで何をしていたのかを思い出すまでには、その三倍程の時が必要だったという。
やがて少しずつ覚醒した頭で、家に帰らなければ、と祖父は口に出して言う。それは自分自身に言い聞かせるような響きでもあった。立ち上がった傍ら、時間の流れから取り残されたような
辺りに人の姿は無く、いるのは祖父一人きりであった。禍々しい程の夕焼け空が鏡の如く川面に映し出されている。自分の歩く方向とは反対へと流れて行く川の水を、どうしてか誰かの血のように祖父は思う。
のちに祖父は、神の悪戯か、或いは鬼門でも開いたのかもしれないと語る。ただ、家に帰ろうと
そして、もしも覚えていたのなら、あのように躊躇なく
どちらにしろ、本当の所は祖父にも私にも誰にも分からないまま。また、川の流れとは逆に帰路を辿る祖父の持つ
そして少しの間の後、そこでようやく忘れていた思い出を取り戻すかのような感覚の中、こうして今、私が話した内容を蘇らせたに至る」
私が言葉を切ると、彼女は筆を動かす手を止め、顔を上げた。そして、ほんの少しだけ首の角度を傾けてにこりと微笑む。
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