第二章【完全トーティエント数】3

「私は……」


 言い淀み、泳いだ私の目に、一匹の猫が映り込む。猫は菓子売り場の右奥で、深い紫色の座布団の上に座っていた。


「あ、猫がお好きですか?」


 私の視線の先を見遣り、彼女が言う。


「此処では、何処の売り場にもいるんですよ。町の人もみんな、猫が大好きなんです」


 その猫は真っ白だった。雪景を切り出したかのように思わせるほどの白さで佇み、不思議なほどにじっと此方を見ている。瞳は黒曜石のように深く、黒い。その二つの闇が瞬きもせずに私を、或いは私と売り子とを見続けている。いつしか私はその猫から視線を逸らせなくなった。黒い硝子のようで艶の有る、夜空の一部のような瞳から。


 色だけで言えば、足元の彼の瞳と目の前の猫のそれとは非常に良く似通っていた。何処までも黒く、吸い込まれそうな闇夜。其処に浮かぶ、黄金の三日月。


 だが、決定的に違うことは、こうして此方を見つめるそれは鋭く、言い知れぬ恐怖すら覚えさせる程のものだということだ。そして、確かに向けられている瞳だというのに、その実、私達など本当には見ていないようにも思える。透過し、無を見つめている。そんな気がした。


 たかが猫の目だろうと言う人もいるかもしれない。もしくは、たかが猫に見られたくらいで大袈裟だと。しかし、これは決して大袈裟では無いと私は断言する。


 私に向き直った売り子の彼女、その背の向こうで、今も私達を射抜くように刺し続ける視線、瞳。現に私は、この場に縫い留められたように動けなくなってしまった。


「どうかしましたか?」


 気遣うように、彼女が言う。私は、その声で現実に立ち返る。けれども意識の戻った今でさえ、何かしらの違和感は拭えないままだった。


「お話、していただけませんか?」


 そういえば私は、未だ彼女の問いに答えていなかった。再び、私は迷い始める。話がしたくないわけでは無い。そのような表面的なことでは無いのだ、この引っ掛かりは。


 だが、結局、今日の私も昨日の私のように頷いてしまった。たちまち彼女は野に咲く小さな花のように微笑む。そして、昨日同様、休憩中の札を売り場に立て、私を売り場の奥の小部屋へと導く。


 彼女の後を歩きながらちらりと右へ視線を動かすと、雪景色のように真っ白な猫が先程のように私を見つめていた。その猫はまるで私の動きを追うように、ゆっくりと二粒の瞳を動かしているように見えた。


「おい。私は此処で待っている」


 不意に足元の彼が声を発し、ふよりと舞うように飛んで白い猫の正面に位置した。いつも地面すれすれの所を浮いていた彼がそんなにも飛べることを知らなかった私は少し驚き、やっぱり飛べるんだな、と驚嘆そのままに口にした。だが、返事は無かった。それを別段気にすることも無く、私は小部屋へと足を進めた。


 部屋の中で既に彼女は、筆、硯、和紙の束を用意して待っていた。硯の中は墨で満たされ、筆を持つ彼女は準備万端という所だった。彼女に勧められるままに私は座布団に座り、何を話そうかと、しばし宙を見据えた。

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