第二章【完全トーティエント数】2

 菓子商店に入ってすぐ、私は昨日の売り場を目指した。特に何か理由が有るわけでは無いのだが、あの売り場にいた彼女は私が此処で多く言葉を交わした者だ。何しろ、此処で話らしい話をした相手は菓子商店の女主人と足元の灰色の彼だけだった私にとって、久しぶりに会話というものをしたように思えて、少なからず嬉しかったのかもしれない。その多くは私が彼女に望まれるままに語った話で占められていたようにも思えるが、とにかく私は昨日の売り場を目指した。


 また、そうする理由は実は他にあるのかもしれないと私は思った。だが、それを明確に説明は出来ない。言うなれば、引っ掛かりというか違和感というか……そういう不透明で不鮮明な、何かしらの錯覚とでも言い表せる感覚だ。けれども、無視することが出来ないほどには大きく、無為に出来るものでは無かった。


 午前中だというのに、既に菓子商店の店内には多くの客の姿が有った。彼らは様々な売り場を物色し、ある者は菓子袋を手に取ってみたり、ある者は試食をしたり、またある者は売り子と会話をしていたりしていた。それらを、各売り場に必ずと言って良い程、一匹はいる猫が観察するかのように眺めている。猫は行儀良くきちんと座布団の上に収まっていて、客を見ている以外ではせっせと毛繕いに勤しんでいる様子が多く見受けられる。彼らは其処らを歩いたりすることは無いのだろうか。


 しかし、やはり食べ物を扱う店に動物を入れるのはどうかと思うのだが、誰一人気にしているようには見えない。女主人の経営方針なのだろうか。不思議な所だ。


 広い店内故に少々迷ってしまったが、私はようやく昨日の売り場へと辿り着くことが出来た。そこには昨日の通り、彼女の姿がある。彼女も私に気が付いたのか、春の陽だまりのように微笑む。


「あ、こんにちは。昨日はどうもありがとうございました」


 そう言って小さくお辞儀をする様子は可愛らしく、その拍子にゆらりと揺れた黒髪が私の目には舞を踊っているように映った。


「良かったら、ご試食どうぞ」


 彼女の示す先には、薄皮饅頭と金平糖がある。私は雪のように白い金平糖を一つ、手に取った。そのまま口へと運ぶ。じわりと甘い。だが、その甘さを本格的に味わうよりも早く、足元から小さな溜め息が聞こえた。言うまでも無く彼からである。


 私は金平糖を舌で転がしながら、彼へと視線を落とす。依然として彼の両の目は閉じられており、表情を窺うことは出来ない。だが、何かを私に伝えようとしていることは明らかだ。そう、確かに昨日の彼の態度も引っ掛かる。食べるのか、と。まるで警告のように告げた彼。しかし、私に分かることは此処までに過ぎない。彼は一体、何を思っているのだろう。何を、知っているのだろうか?


「お味は、如何ですか」


「ああ、おいしい。ありがとう」


 不意に掛けられた声に顔を上げると、売り子の彼女と目が合う。そこで彼女は、にこりと笑った。


「良かったら、お買い求めになりませんか?」


「いや、生憎、手持ちが無くてね」


 昨日と同じような会話。それ自体には別段、何の問題も無いだろう。それでは私が問題視していることは何なのだろうか。


「でしたら、何か面白いお話を聞かせていただけませんか。もし聞かせていただけるなら、それを御代の代わりにして金平糖を差し上げます」


 どうでしょうか、と緩やかに誘うように彼女が続ける。


 昨日の私は此処で頷いたのだ。それが今日は、正体の見えない力によって遮られる。何故だろう。私は自分一人が唐突に霧の中に放り出されたような感覚に陥る。私は頷くのか、頷かないのか。


 行動には理由が存在する。昨日の私は、面白い話をいつか草紙にまとめて出版することが夢だという彼女の言葉と笑顔に惹かれて頷いた。それでは、今日の私は?

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