第二章【完全トーティエント数】5
「すごく、不思議なお話ですね。空恐ろしくもありましたけれど」
「ああ、こういう話じゃない方が良かったかな」
彼女の言う所の「面白い話」から外れてしまったかと、私は内心焦りながらそう尋ねた。だが彼女は私以上に慌てたのか、いいえ、と若干強い口調で告げた後、間、髪を入れず言葉を続ける。
「こういう面白さ、好きです。日常の中、唐突にそれが失われる様子……或いは、それと隣り合わせでいる様子。私はこうして聞いている身で、実体験したわけではありませんから想像するしか無いですが、そこに置かれてしまった人間は本当に目の前の出来事を追うだけで精一杯なのでしょうね。きっと恐ろしい思いをして、助けてほしくて。けれど、誰もいなくて、孤独で。私だったら耐えられないかもしれません。物語として伝え聞いているからこそ、面白い、興味深いと言い表せるのだと思います」
私には彼女の放つ熱が見えるようだった。小さく丸い音のような響きを持つ彼女の声は決して良く通るわけでは無かったが、一つ一つの音が確かな意思を持って彼女の唇から生まれ
「本当に、ありがとうございました」
その感謝の言葉も、確かに目の前の彼女が、彼女の声で言ったもの。しかしながら、ほんの一瞬程前に感じていた心地好さが、そこでぷつりと断ち切られた。意思を持った渦のように私に流れ込んで来ていた声の流れが、不自然に切られたのだ。その言葉で以て。
「それでは、そろそろお店の方に」
彼女は、筆、硯、和紙の束を小さな机の上に戻し、立ち上がる。それに倣うように私も立ち上がる。
私は草履を履きながら、形容のし難い違和感のようなものについて考えてみたが、それは正体の影すら見せることも掴ませることも無かった。
それでも何かに引っ張られるようにして、私は部屋を出る瞬間に振り返ってみた。勿論、其処には誰もいない。彼女は既に店に戻ってしまっていたし、私は此処にいる。誰がいる筈も無いのだ。空っぽになった小さな空間を見渡しながら、私はそれを改めて認識する。
だが、その誰もいる筈の無い、実際に誰もいない小さな部屋に、先程までの私達の残像がゆらりと蝋燭の炎のように揺れた気がして、私はしばらく其処に佇んでしまった。まるで何かを置き忘れてしまったような感覚が私を取り巻いていた。
店を出る時、彼女は約束通り、真っ白な金平糖を手渡してくれた。礼を言って受け取ると、いいえ、こちらこそありがとうございます、と彼女は微笑んだ。
そして歩き出した私の後ろからは相変わらず灰色の彼が付いて来る。そういえば、あの店にいた猫と何か話でもしていたのだろうか。やはり、猫には猫の友人というものがいるようだ。いや、彼が猫というのは私の勝手な憶測に過ぎないのだが。
「さっき、何か話していたのか?」
あの店にいた猫と。そう私が尋ねると、少しの間を空けて、彼が小さく肯定の返事をした。
「真っ白な猫だったな。友達か?」
返す言葉は無い。
「綺麗な猫だったが、どうもじっと見られているような気がしてあまり良い感じはしなかったな」
彼は黙っている。
「悪い、友達なんだよな。ああ、そういえば、お前と目の色が似ていた」
彼はまだ黙っている。
機嫌を損ねてしまったかと、私は話題を変えるべく思案する。けれど浮かび回るのは彼女と白い猫と白い金平糖ばかりで、私の口から新しい話題が出て来ることは無かった。
「友達では無い」
長い沈黙の末、独り言のように彼がぼそりと言った。
「そうか。勘違いだったみたいだな」
それきり再び黙りこくってしまった彼を尻目に、私は特に用も無く店内をうろついた。特に用も無く?
そこで私は、先日に聞いた言葉を思い出す。この菓子商店の女主人が言っていた言葉だ。気に入りの所を見付けたら声を掛けておくれ、と。それなら、昨日と今日、足を運んだあの店が良いのではないだろうか。応対してくれた彼女の笑顔が花開くようにふわりと脳裏に蘇る。
しかし、女主人は何処にいるのだろうか。あまりにも広すぎる店の中、一度しか行ったことのない場所を正しく思い返すことはあまりに困難だった。彼女の売り場ですらも今日でまだ二度目で、やはり迷いながら辿り着いたのだ。
私は気の向くまま、勘の働くままに足を動かしたが、今、自分が歩いている通路が通ったことのあるものなのかどうかも私には分からなかった。何しろ、目に映る店という店の一切が菓子を扱っているので、どれも似たように見えるのだ。そして、一つの売り場には一人の売り子、一匹の猫というスタイルも同じ。それぞれの顔など覚えていないし、売り子の着物は同じでは無いものの、いちいち柄など記憶してはいない。
通路の両側にずらりと果てがないようにして続けられている菓子売り場を見続けていると、だんだんと眩暈を感じて来る。私は、近くの売り子に女主人は何処にいるのか尋ねてみようとした。
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