第一章【振り返れ】8

「ありがとうございます。不思議なお話ですね、面白かったです。知人の方とは今もお会いになるんですか?」


「いや、最近は……」


 そこで私は言い淀む。自らがたった今、話した内容にあったように、自分が何かを忘れているような気がしたのだ。そして、それが思い出せない。私はまるで自分が話の中の男になったようにも思え、不可思議な感覚に陥った。


「どうかしましたか?」


 黙り込んでしまった私に彼女が声を掛ける。いや、何でもないんだと答え、私は立ち上がる。どれくらいの時間が過ぎたか分からないが、彼女があまり長らく売り場を空けるのも良くないだろう。


 私は休憩中の札が立てられたままであろう売り場を思い描き、そろそろお《いとま》するよと告げると、彼女も立ち上がる。先に行って最中もなかを用意しておきますね、今日は本当にありがとうございました、と彼女がお辞儀をする。心なしか「本当に」という言葉が強調されたように私は感じた。


 小部屋を出て行く彼女の後ろ姿を見ながら、私は先程に覚えた小さな引っ掛かりは一体何だったのかと思い耽る。知人の方とは今もお会いになるんですか? という彼女の言葉を今一度、反芻はんすうする。そして、ふと彼女が使っていた筆、硯、和紙に目を遣る。だが、特に何かを思い出すきっかけには成り得ず、気のせいかもしれないと思い直し、私は草履を履いた。


「振り返れ」


 不意に背後から聞こえた声に、その言葉のまま、私は振り返る。そこには、彼がいた。座布団のような、猫のような、灰色の彼が。


 そういえば話をしている間、彼は一言も口を開かなかった。話すことに気を取られていたので、彼がどんな様子でいたのかも分からない。


「ずっといたのか。退屈しなかったか?」


 彼は瞳を閉じたまま、じっと此方を見ているような気がする。何とも居心地の悪さを覚え、私は彼から視線を剥がし、小部屋を出ようとした。彼は私の後に続きながら、低く小さく呟いた。


「愚かな」と。


 それは独り言と称するには大きく、私に向けての言葉だとしたら小さく。ただ、まるで棘のように刺さる声だった。

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