第一章【振り返れ】7

 私は、具体的にどんな話が良いのか彼女に尋ねた。彼女は先程と同じように、面白いお話が良いです、と言う。そして、不思議なお話も好きです、と付け加えた。


 少しの思案の後、人伝てに聞いた話でも良いのかと私が確かめると、彼女は肯定した。私は、いつかに聞いた、記憶の底に沈んでいるそれを思い出しながら口を開いた。 


「――もう数年は前に知人から聞いた話なんだが。良く晴れた秋の日、その男は家の前の畑を耕していたそうだ。麦の種蒔きをしようとしていたらしい。男はそこに住み始めて十年は経つそうで、その畑ともそれだけの付き合いをしてきたわけだが、このような奇妙なものを掘り出してしまったのはついぞないと、大層、驚いたと聞く。男はただ、いつものようにいつものくわで畑を耕していただけだ。その時、何か奇妙な手応えを鍬の先に覚えた男は、座り込んで土を手でどけてみたらしい。石か木の根か、そういうものを想像していたらしいが、男が目にしたものは猫だったという」


「猫?」


 書き留める筆を動かす手を休め、彼女が不意に顔を上げる。ああ、と頷き私が再び話し出すと、彼女もまた再び書き始める。


「まさか畑に猫が埋まっているとは思わなかった男は動揺し、腰を抜かしてしまったらしい。そして更に驚くべきことに、今まで土の中にいた猫は急に目を開け、あろうことか自力で這い出て来て、ぶるりと体に付いた土を払うように体を揺らし、口から大量の土を吐き出したという。その後、すぐに猫は山の方角へと駆け出して行ったらしい。何事かと男は言い知れぬ恐怖を覚えたが考えてみた所で分かるはずも無く、そのまま畑を耕し、麦の種を蒔いたという」


 私は一度、言葉を切り、続きを話した。


「――そして、その翌年の収穫期、麦秋至むぎのときいたるの頃。見事に実った麦を男が収穫している時だった。男の耳に、か細い鳴き声が聞こえた。風の音か、気のせいかと思ったが、それはずっと途切れること無く聞こえ続けている。微かにしか聞こえないが、それは確かに何かの鳴き声だった。


 男は収穫の手を一旦休め、声の出処を探し当てるべく、じっと耳を澄ました。すると、声は非常に近い所から生まれていると気が付き、男は自らの足元や辺りを見渡したが、人も獣の姿も無く、いよいよ不審に思い始める。


 だが、依然として何も見付からず、男は刈り入れの作業に戻ろうと鎌を握り直した、その時。男は自分の目を疑った。今、まさに刈り取ろうとした麦の穂。それを良く良く見れば、そこに実っているのは麦などでは無く、猫の頭だった。とは言っても実際に猫の頭の大きさをしているわけでは無く、麦の一粒、一粒の大きさに等しくなっている。連なるそれは全て、全てが同じく猫の頭であったという。男は声にならない悲鳴を上げ、鎌を落とし、家へと駆け戻った。


 家では丁度、男の妻が朝の残りの米と雑穀で握り飯をこしらえている所だった。男によって勢い良く開かれた扉の音は妻を驚かせたが、それ以上に男は驚くことになる。たった今の恐ろしい出来事を話すべく男が駆け寄った妻の手にしていた握り飯は、米粒のように小さな猫の頭の集まりで出来ていたからである。


 今度こそ男は大きな叫び声を上げ、思わず妻の持っているその握り飯を叩き落とす。これまた妻も驚く。男は今まさに見た光景と、少し前に見た光景を驚愕も露わに妻に話す。だが、握り飯も畑の麦も、妻には何の変哲も無いように見える。男の目にだけ、それらは猫の頭に映っていたのだ。


 そこで一度、男の意識、記憶は途切れる。次に気が付いた時、男は畑の前に立っていたという。眼前には実りに実った麦。右手には鎌。振り返った先には自らの家。男はしばらく呆けていたが、やがて麦の刈り入れを始める。何かを忘れているような気がしてならないものの、何を忘れているのか、実際に忘れてしまったことがあるのか分からないまま、手を動かし続ける。


 やがて全ての麦を刈った男は、その一部を持って家に入る。家では男の妻が米と雑穀で握り飯を作っていた。それを一つ受け取り食べながら、やはり何かを何処かへ落として来たような感覚を拭い去れず、男は考え込みながら一つ目の握り飯を食べ終える。そして同じように二つ目の握り飯も食べ終える。三つ目を手にした時、男は聞こえない筈の細い風のような鳴き声を聞いた気がして、ふと顔を上げる。


 そこへ妻が白湯を差し出す。それを受け取った時、どうしてか男には妻の顔が良く見えなかった。男は、白湯を一口飲んだ後、改めて妻の顔を見る。男は自分の息が止まったかと思う程の衝撃と驚愕と恐怖に包まれる。何故なら、妻の顔は見知ったそれでは無く、金色こんじきの毛の生えた山猫になっていたからだ。妻なのか化け物なのか分からないその生き物は、たった一言、思い出さなければ良かったものを、と男に告げて、大きな目を更に大きく見開き、口を開き、尖った牙のような歯を見せ付けるようにした。


 ここでまた、男の意識、記憶は途切れる。気が付いた時には、男は麦畑の中に一人で立っていた。時が止まっているかのように立ち尽くす男の周囲で、不意に生じた一陣の風を受け、麦の穂がさわさわと音を立てて揺れた。


 男は、はっとしたように目を自らの家へと向ける。そして男は麦の間を通り抜け、家へと戻る。そこには、米と雑穀で握り飯をこしらえる妻の姿があった。


 男の方を見た妻の顔はいつもの妻の顔で、男の見たことのないものでは決して無かった。男は混乱した頭で考える。何かを忘れてはいないか、と。どうして自分は見慣れた筈の妻の顔を見て、ほっとしたのかと。この安堵は一体、何処から来るものだろうかと。


 そこで、ふと男は妻に渡すものがあったことを思い出す。ひどく唐突に、それは思い出された。男は懐に手を入れ、珊瑚の飾られたかんざしを妻に手渡す。町で買ったんだ、お前に似合うと思って、と。妻は喜び、嬉しい、と口にした。そして、髪に挿し、似合う? と男を振り返る。ああ、と男は返事をする。


 妻は少しの涙を浮かべて、覚えていてくれたんだね、私達の結婚した日を、と心底から嬉しそうに言った。


 ――結局、己が忘れていたものは妻への贈り物であったのかと、男は考えを其処へ落ち着けるに至った。男の記憶にはほんの少しも、あの一連の奇妙は残されていなかったのだ。即ち、畑の麦が、握り飯が、小さな猫の頭で出来ていたこと、妻の顔が山猫のようなものになっていたこと。


 ただ、事実を覚えてはいないものの、些細な棘のようにして男の指の先に刺さっていた引っ掛かりはいつしかすっかり消え去り、いつもの変わらない日常を男は取り戻した。


 しかし時折、猫の鳴き声や細い風の音を耳にするたび、男は何かをふと思い浮かべるという。それが何かは男にも分からない。男の指に刺さった棘は本当は今も其処にあるのかもしれない」


 私が話し終わって少しした後、彼女は筆を動かす手を止め、顔を上げた。彼女の手元にある和紙には、細く美しい文字で私の話が書き留められている。

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