第一章【振り返れ】4

 私は渦巻く困惑や疑問を無理矢理に押し込め、立ち上がった。灰色の生き物は、まるで、それで良いのだと言うように小さく頷いた。私にはそう見えた。


 そして、これ以上に私の心の臓を驚かせようというのか、足元の生き物は急に開眼した。ぎょろり、と二つの目玉が目頭から目尻の輪郭を強調するように動き、下方を通り一回転し、そしてそれはすぐに私を正面から見据える。真っ暗な闇に浮かぶ細い三日月が私を見ていることが分かる。


「さあ、行こうか」


 私を導く水先案内人のように、先に立ってその生き物は進み始める。良く良く見ると、その生き物には足が無く、床から僅かに浮いた所を移動している。どれ程に私を混乱させれば気が済むのだろうか。だが、そのような私の思考を消し去るかの如く、此処に閉じ込められたくなければ急いだ方が良いと私は提案する、という声が前方から聞こえたので慌てて私は足を進めた。


「この鐘の音が鳴り終わるまでに、此処を出なければならない」


 先を行く生き物はそう告げ、今も鳴り続けている低い鐘の音の隙間を縫うようにして私を商店の出口まで案内してくれた。私がお礼を言ったのも束の間、すぐさま、では次は君の住まいに案内しよう、と引き続き、その生き物は案内人を買って出てくれた。


 そうして辿り着いた住居――私の仮の住まい――に、どうやら彼は居座ることにしたのか、私は灰色で正方形で座布団のような生き物と同居することになった。そして、今日で三日目を迎えることになる。


 私は改めて足元にいる彼を見ると、何とも不思議としか形容出来ないことを再認識する。私は未だかつてこのような生き物を目にしたことも無ければ、耳にしたことも無い。


 彼の目が開いた時、猫に似ていると思ったが、世間一般で言うところの猫という生き物は言葉を話さない筈だ。長く生きた猫はあやかしとなって人の言葉を操るとも聞くが――。


「何か用か?」


「いや、何も」


「そうか。無駄な行為は避けるべきだ。お前がすべきことはただ一つ、振り返ること。それ以外は塵芥ちりあくたに等しい」


「もっと具体的に言ってくれないか」


「これ以上の具体性を示すことは出来ない」


「そういえば、お前の名前を聞いていないな」


「急に話題を転換することはあまり感心しないな」


「話が発展しないなら、話を変えるしかないだろう」


「納得。しかし名前など記号に過ぎない」


「いや、初日に何者か尋ねて良いと言ったのはお前だろう」


「許可はしたが、回答するとは告げていない」


「仰る通りで」


 彼とは終始、このような感じである。会話に違いは無いのであろうが、得るものが極端に少ない。


 それにしても独特の話し方をするなと私は彼と口をきくたびごとに思う。嫌いでは無いが、良くも悪しくも妙に人に自分を存在付けるような話し方をする。

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