第2話 美月の夢

「夢の話をする前に、一つだけお願いがある。これから話すことの中には辻褄が合わないことがたくさん出てくる。だけどそれに対して話の途中でいちいち質問をしないでほしい。ただ耳を澄ませて聴いていて」

「わかりました」彼女の強い主張に、私はそう言うしかなかった。

 彼女はふぅーと長い深呼吸をして話し始めた。


「私は毎晩同じ夢を見る。その夢の中では、私はまだ小さな子供で洞窟の中で暮らしている。父親と母親もいる。家族三人で仲良く洞窟の中で暮らしている。きっと縄文時代あたりなのかな。父親がたまに外に出て動物を捕まえてきたり木の実を取ってきたりする。母親は保存食を作ったり水を汲みに行ったりしている。なぜか私は外の世界を知らない。洞窟の外の世界がどうなっているのかを全くわからないでいる。それでも私は幸せだった。夢の中だけど、とても満ち足りた生活を洞窟の中で送っていた」そう話す美月さんの横顔はかすかに笑っていた。それを見て私も幸せな気持ちになる。

「そんなとき雨が何日も降り続いた。その間なかなか父も食料を取りに出かけることができなくて保存食も残り少なくなっていた。だから久しぶりに晴れた日、父と母二人で食料を取りに出かけて行った。『決して火を絶やさないように。火を消したら獣が入ってきてしまうから』彼らはそう言い残して外の世界に出かけて行った。

 それから数時間が経った頃、大きな地響きがした。ゴーッと底から大きく突き上げてくるような揺れを感じる。洞窟全体が大きく揺れ始める。立っていられない。私は地面に這いつくばって揺れが収まるのを待った。

 揺れが最高潮に達したとき、洞窟全体が暗闇の中に閉じ込められる。私の視界は真っ暗な世界だけになる。一瞬何が起こったのか分からない。きっと揺れのせいで火が消えてしまったのだろう。でも今は昼だから、外からの光が入ってくるはずだ…そうか、きっと岩か何かが落ちてきて入口を塞いでしまったんだ。

 揺れが止まると、私は入口の方へ歩いていく。案の定、入口は大きな岩でふさがれている。その岩を両手で押し返そうとする。でもビクともしない。この岩は人間の力では動かすことはできないなのだと直感的に悟った。私は洞窟の中に閉じ込められ、ここで独り死ぬしかないのだと完全に理解した。

 私は火をつけた。火の明かりで残りの食料を確認する。食料だけなら一週間はもつか?でも水がほとんどない。今朝汲んできた水は底をつきかけている。ちょうど汲みに行こうとしていた矢先の出来事だったから。

 私は完全に絶望した。すべてが再び真っ暗になったようだ。でも視界の端っこに小さな光が見えた。キラリと鋭い光を放つそれは、槍を研ぐための鋭利な石だった。父親が毎晩これで槍を研いでいた。『もういっそのこと死んでしまおうか』飢えと渇きで苦しみながら死ぬより、自ら死を選んだ方がきっと楽にちがいない。喉元か心臓を突き刺せばすぐに死ねる。父がよく言っていた。動物を仕留めるときは急所を狙うんだ。急所とは喉元か心臓だ。そこを一発で突き刺せば苦しませることなく殺すことができる。

 私は鋭利な石を手に取る。石を手に持った瞬間、全身が震えていることを知る。これが恐怖というものなのだ。そして絶望というものなのだ。恐怖と絶望に抗うように、私は顔を上げて喉元を突き出し、石を振り上げて、喉元と直線上の位置に置いた。さあ、恐怖と絶望よ、私の元から去っておくれ。そう願うと、すべての感情が消え去るのを感じた。身体の震えも止まっていた。そうだったのか、今の私にとって死こそが最大の希望なのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。私はゆっくり目を閉じた」


 美月さんはそう言って目を伏せた。手元にあるコーヒーに気づいたのか、それを二口ほど飲んだ。それから大きな深呼吸して、私の方を見た。

「死の世界への階段を堂々と歩きだそうとした瞬間、どこからか声が聞こえた。

『なあ、取引しないかい?』目を開けて声の方に顔を向けると、一匹のコウモリが岩にぶら下がっていた。

『これから死のうってのに、何の恐怖も感じない奴はそうはいない。むしろ希望すら感じてやがる。気に入ったよ。お前こそ救世主だ』

 私が救世主だって?何を言ってるんだ?

『お前はここで死ぬ。それは間違いない。運命で決まってしまっている。でも俺と取引すれば、お前は新しい世界に生まれ変わることができる』

 生まれ変わる?一体何に生まれ変わるんだ?

『救世主に決まってるだろ』コウモリはヒヒっと笑った。

『お前の足元に茶色の石がたくさん落ちてるだろ?それで壁に絵を描け。なんでもいい。好きな絵を壁に死ぬまで描きまくれ。そうすればお前を三千年後の世界に生まれ変わらせてやる。お前はまた新しい世界で救世主として生きていくんだ』

 

 私は足元を見た。さっきの揺れで天井から崩れてきたものであろう、茶色い石がそこら中に転がっている。絵なんて描いたことがない。でも、絵は私にとって生きることへの希望になっていた。さっきまで心を覆っていた死への希望は消え失せていた。ただ、生きる希望が湧いてきた瞬間、私は父と母に会いたくなった。新しい世界でいいから、父と母に会うことができれば何だってやってやる。


『あなたの言う通り絵を描く。だから一つだけ私の願いを叶えてほしい。生まれ変わったら、父と母に会わせてほしい。それを叶えてくれるなら…最高の絵を描きまくってあげる』

 コウモリは少し黙って何かを考えていた。どこかでポツンと水が落ちる音が聞こえると口を開いた。

『わかった。生まれ変わったら、お前の父と母に会えるよう取り計らうよ。その代わり最高の絵を期待している』

 その言葉に私は頷いて、さっきまで死ぬために握りしめていた石を放り投げた。

『あなたと取引に応じる』そう言って、茶色い石を拾い上げた。

『取引成立』コウモリはまたヒヒっと笑った」


 美月さんは残っていたコーヒーを全てグイッと飲み干した。

「これが、私が茶色い絵しか描かない理由。こんな夢ばかり見てるから、現実世界でもそうなってしまった」

 美月さんはそこから少し黙っていた。飲み干したコーヒーのコップの底を見ていた。私はコーヒーのおかわりを淹れ直そうとお湯を沸かした。多分だけど、まだ話は終わってないと感じたから。美月さんが話し始めるのをゆっくり待っていた。美月さんのコップに新しいコーヒーが注がれたとき、彼女は話し始めた。

「それから私は洞窟の壁に向かって茶色の絵を描き続けた。文字通り全身全霊を込めて描きまくった。死ぬまでそれを続けた。自分が何を描いたかは全く覚えていない。何かを必死に描いていた。

 そのうち食料が尽きて何日も飲み食いしない日々がやってきた。でも不思議と苦しくはなかった。私には絵があったから?もしくはコウモリが苦しくないように取り計らってくれたのかもしれない。彼は私の絵を見たいのだから、それくらいしてくれてもいいよね。そうして洞窟の壁一面に茶色の絵を描き終えた頃、私は死んだ。

 死ぬ間際、コウモリは私に何かを言った。その言葉をどうしても私は思い出せない。きっと父と母に会うための何か手掛かりみたいなことを言ったと思うんだけどね」


 それを聞いて私はやっと口を開く。

「コウモリが最期に言った言葉を、突き止めればいいんですね?」

 美月さんは顔を上げて私の顔を見た。

「夢の話なの。全く現実味を帯びていない。でも毎晩のように見ていると、どうしても知りたくなってしまった。あのコウモリが何と言ったのか。もしかしたら本当に父と母に会えるかもしれないから。私が生まれ変わる前の父と母に」

 現実の美月さんにはちゃんと両親とも健在ということだった。だから会えたとしても、今の世界では全くの他人なのだ。でも一目だけでいいから会いたいと美月さんは言った。


「その依頼、承りました」

 こうして私は美月さんの夢の中を旅することになった。

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