第76話 きさらぎに雨が降る⑰

 夕方の泉間せんま駅はたくさんの人で混み合っていた。この中の多くは、今から帰宅する人なのだろう。

 真白ましろは改札にICカードをかざし通り抜ける。

 きさらぎ駅を目指したときと同じ手順で、帰宅する人々に混じって電車を乗り換えていく。

 いつしか、窓の外は暗くなっていた。

 そして、行程の半分ほどを消化したときだった。

 不意に、車内の電灯がちかちかと瞬いた。なんだと思う間もなく、車内が暗闇に包まれた。

 とっさに身構える。

 消えていたのは数秒だっただろうか。電灯はすぐに復旧した。

「――」

 車内から、真白以外の人間が消えていた。ほぼ満員だったのに、今や乗客は真白だけだ。

 幻覚ではない。おそらく、ある種の結界の中に入ったのだ。真白だけが通過を許された結界の中に。

 人がいなくなった車内、立っていた真白は遠慮なくロングシートの真ん中に腰かけた。

 電車は何事もなかったかのように走り続ける。

 暗かったはずの窓の外は、真っ赤な夕焼けだった。昔どこかで見た気がする光景が流れていく。

 やがて電車が止まる。

 真白が下りると、すぐさまドアが閉まり、電車は走り去っていった。

 無人のホームには、さびついた駅名標がぽつんと立っていた。

 かすれていて、駅名は読み取れない。

 以前降り立ったきさらぎ駅とは違う駅のようだ。木造の駅舎がある。

 やはり無人の駅舎を抜けて外に出た真白は、目を瞠った。

 眼前には、見覚えのある街並みが広がっていた。

 真白が小さい頃に住んでいた街だった。

 傍らを見れば、自動販売機のラインナップに懐かしい商品がある。家族で電車に乗って出かけた帰りに、よく母親にねだって買ってもらった甘いジュースだ。この自販機でしか見かけたことがない。

 思わず買おうとして、真白は寸前で思いとどまった。ヨモツヘグイというわけでもないだろうが、この空間の物を飲み食いするのはよくない気がする。

 正面に伸びる大通りを歩く。

 コロッケがおいしい肉屋、よく立ち読みした本屋、鯛焼きがメインのはずなのに焼き鳥が人気の店、おじいさんの店主が営む個人経営のゲームショップ――。

 夕焼けの中の街は、人間こそいないものの、なにもかもが昔のままだった。

 一体どうやって再現したのだろう。こちらの心の中でも覗いたのか。

 なんにせよ、悪趣味なことをしてくれる。

 郷愁を覚えるというほど年月が経っているわけではない。それでも、真白の胸は締めつけられた。これらは、真白にとって永遠に失われた光景だった。

 現実では今も変わっていないとしても、真白にとって同じ光景はもうない。そばに父も母もいないのだから。

 コートの胸元を固く握りしめる。

 道しるべは必要なかった。この偽りの街の中で、行くべき場所はわかっていた。

 夕焼けの中、かつて父と母と共に歩いた道のりをひとりで歩く。

 楽しげな父と母の顔が脳裏をちらつく。

 母との他愛のない会話が、買ってもらったコロッケの味が、疲れて父におぶってもらった記憶が、次々とフラッシュバックした。

 どこにでもあるような、でも決して同じものではない、自分だけの家族の形――。

 そうして、真白は自宅へとたどり着いた。茉理と暮らしている家ではない。自分が生まれ育った家だ。

 玄関には、ほのかな明かりが灯っていた。

 洞澤が待ち構えているとしたら、ここしかない。

 真白はスクールバッグからデザートイーグルを取り出す。

 構えながら、玄関のドアに向けて力を解き放った。

 木製のドアが木っ端みじんになって吹き飛ぶ。

 罠を警戒したとはいえ、思い出ごと吹き飛ばしたみたいで心が痛んだ。

 廊下には誰もいない。少し迷ったが、土足のまま踏み込んだ。

 木の匂いに混じって懐かしい匂いがした。自分の家に漂う独特の香りだ。匂いまで再現するとは、一体どういう空間なのか。

 居間の入り口横の壁に背中をつける。呼吸を整え、真白は居間に飛び込んだ。


「お帰り、真白」


 懐かしい声が耳朶を打った。真白は目を見開く。

 そんな、まさか。

 テーブルの側で、母がやさしく微笑んでいた。

 生きていた頃の姿そのままに。

「お母さん……」

 自然と、喉からかすれた声が漏れた。

 ソファには、穏やかな笑みを浮かべた父が座っている。とっさに確認したテーブルの上に、灰皿は乗っていなかった。

「……お父さん」

 そして――。

「どうしたの、そのピストルのおもちゃ。真白、そんな趣味なんてあったっけ?」

 父の隣に、六花りっかが座っていた。

「六花。どうして」

「ちょっと、お姉ちゃんを呼び捨て?」

「お姉ちゃん……?」

「そうだよ。あなたのお姉さん。忘れちゃったわけじゃないよね」

 六花はいたずらっぽく笑った。話し方も仕草も、六花そのものだった。

 一体どういうことだ。

 魔術の類だとは思うが、全員、あまりにも解像度が高すぎる。

 真白が戸惑っていると、母が近寄ってきた。

「外は寒かったでしょう。晩ごはんの用意ができてるわよ。今日はビーフシチューにしたの」

 奥のキッチンに圧力鍋が見えた。真白が手伝おうと念動力で動かし、母を驚かせてしまった鍋だった。

 真白は後ずさる。

「どうしたの?」

 母は不思議そうに首をかしげた。

 目の前の母は、どう考えても母ではない。

 洞澤が作り出した、母に似た『なにか』だ。中身がバケモノという可能性も否定できない。

 真白は激しい葛藤に襲われた。

 どうする。撃つか。

 本物なわけがない。偽物に決まっている。だったら撃つべきだ。

 だが、自分に撃てるのか。母にしか見えない存在を。

 真白は唇を噛んだ。

 デザートイーグルの銃把を強く強く握りしめて、首を横に振る。

「私は、撃たない」

「真白、どこか具合でも悪いの?」

 やさしい母の声に、胸をかきむしられるような気がした。

 いっそこのまま、この空間を受け入れられたらどんなに楽か。

 でも――。

 惑わされるな。

 母も、父も、六花も、もういないのだ。

 いていいはずがない。

 なぜなら――。

「――お母さんも、お父さんも、六花も、死んだのだから」

 一度は受け入れた事実を再確認するのは、胸が張り裂けそうになるくらいの痛みを伴った。

 でも、避けては通れない。

 覚悟を決めた。

 撃つ必要なんてないとわかった。自分はただ、認めればいいだけだ。

「消えてください。あなたたちは偽物です」

 決定的な一言だった。

 真白がその言葉を口にした瞬間、母たちの姿が揺らぎ、ふっとかき消えた。

 途端に、喪失感と虚脱感が一気に押し寄せてきた。

 ――これでいいんだ。これで。

 細い息を吐き出し、真白は天を仰ぐ。見慣れたシーリングライトの光が目にまぶしかった。

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