第73話 きさらぎに雨が降る⑭

 静かに息を吐き出して、六花りっかまぶたを閉じた。

 最後に手を握りしめ、真白ましろは六花の身体をそっと床に横たえた。

 死してなお、六花の顔は白くてきれいだった。本当に雪の精霊みたいだ。このまま溶けて消えてしまってもおかしくない。

 気を抜くといろんな感情がどっと押し寄せて溢れそうになるので、努めて心に蓋をする。

 でなければ、この場にうずくまって一歩も動けなくなるに違いなかった。

 とにかく、いまは帰還が第一だ。

 部屋の隅に転がっていたデザートイーグルを引き寄せてホルスターに納める。最後に六花を一瞥し、真白は書斎を出た。

澄人すみと、生きていますか」

 壁にもたれて座りこんでいる澄人に声をかけた。澄人はうっすらと瞼を開ける。

「……なんとかね」

「傷の具合は?」

「腕と足を撃たれた。急所はわざと外したんだと思う。六花の魔眼も解けたし、身体は動くよ。真白は? あちこち怪我してるみたいだけど」

「大丈夫です。支障はありません」

 力を使って現在進行形で止血をしている。痛みはあるがどうってことはない。

 かがみこんだ真白は澄人の身体に手を当てた。血の流れを感じ取る。そうして、傷がある場所を力で塞いだ。澄人が目を瞠る。

「ど、どうやったの?」

「念動力で無理矢理塞ぎました。あくまで応急処置です。自分以外に使うのは初めてなので、ぐちゃってなったらごめんなさい」

「待って。ぐちゃってなに?」

「私の集中が切れたらスプラッタってことです」

「真白が冗談を言うなんて、珍しいね」と澄人は苦笑する。

「? 冗談じゃないですよ」

「え……?」

 二人分の止血をしているのだ。ちょっと加減を誤ったら血管が破裂してもおかしくはない。

 もっとも、銀の鍵を飲まされて目覚めてから、力の調整が自分でも怖くなるくらい冴えているのでしばらく心配はないと思う。

 ペイルホースのときのように出力が上がっているわけではなさそうだが、銀の鍵の効果なのだろうか。

「とにかく、ありがとう。……っつ」

 立ち上がった澄人は顔をしかめた。

「歩くのはきつそうですね。おんぶしますよ」

「それも冗談じゃないんだろうね」

「はい。織戸おりとさんが心配です。早く合流しましょう」

 六花は織戸には汚れたものをけしかけたと言っていた。戦闘が不得手といっても織戸も任務従事者だ。滅多なことはないと信じたいが、不安は拭えない。

「魅力的な提案だけど、おんぶはいいや。肩を貸してくれる?」

「どうぞ」

 澄人の無事な方の腕を肩にかけ、支えながら歩き出す。

「……情けないな。男なのに」

「関係ないですよ」

「ぼくは、なにもできなかった」

 弱音を漏らす澄人は珍しい。いつだって真白たちを元気づけてくれるのに。

「私は、澄人が生きていてくれてよかったです。きっと、一人では、この帰り道に耐えられません」

「そうか……」

 澄人を支えながら、久野座邸を進む。

「……六花が自分の過去を告白したときに、ぼくも自分の過去を話していれば、こうはならなかったかもしれない。ぼくも同じだよって」

 玄関まであと半分といったところで、ぽつりと、澄人が言った。

「同じ……?」

「ぼくも、小さいときに六花と似たようなことがあったんだ」

 真白は黙って澄人の顔を見つめる。

「ぼくは、自分で言うのもなんだけど、女の子みたいな顔をしてるだろ。でさ、変質者に誘拐されたんだ。女性と男性の二人組だった。SNSで知り合ったって言ってた。ずっと前からぼくに目をつけてたんだって。それで、二人は、誘拐したぼくを……」

 澄人は言葉に詰まる。自分の地獄を反芻はんすうしているのは明らかだった。

「話さなくていいですよ」

「……え」

「吐き出して、澄人が楽になるのならいくらでも聞きます。でも、つらいのなら、無理に思い出さなくてもいいんです」

 半ば自分に言い聞かせるように、真白は言った。

 聞くやさしさもあれば、聞かないやさしさもあると、真白は茉理まつりから教わっていた。

 はたして、澄人は安心したように言った。

「……ごめん、ありがとう」

 玄関に到着した。重たいドアを身体で押し開けて外に出る。ぬるい夜風が頬をなでていく。

 少し歩いただけで汗がにじんだ。

 茉理は、最近の夏は夜になっても暑いとぼやくが、真白にとって夏はこんなものだ。真白は、溶けそうなくらい暑い夏が嫌いではなかった。

 二人分の呼吸の音だけが聞こえる。

 塀を乗り越える必要はもうない。堂々と舗装された道を通って、まっすぐに門に向かった。鉄の門扉を解錠して道路に出る。

「おまえたち、生きてたか!」

 と、織戸が駆けつけてきた。ごつい軽機関銃を持っている。あちこち汚れていて、アクション映画終盤のヒーローみたいな格好だった。

「もう少し待って出てこなかったら、乗り込むつもりだったぞ」

 鼻息も荒く、織戸は言う。

「汚れたものに襲われたって聞いたんですが、元気そうですね」

 これで織戸までいなくなってしまっていたらと考えるだけでぞっとする。生きていてくれて、本当によかった。

「ああ。ぐじゅぐじゅしたわけのわからんバケモノどもが押し寄せてきたが、こいつと魔術でなんとかな……って、なんで知ってる? ……いや待て、雨越は……?」

「ひとまず、車に乗せてもらっていいですか。先に澄人の治療をお願いしたいです」

 真白の固い声で察したのか、織戸はそれ以上を訊かなかった。

「――わかった。ここで待ってろ。すぐに戻る」

 踵を返し、道路の向こうに走っていく。

「ぼくたちは、帰れるんだね……」

 天を仰いで、澄人は言った。

 重たい言葉だと思った。

 真白は、家に帰ったら茉理がいてくれる。だが、澄人は――。

 六花のいない施設での澄人の気持ちを想像すると、胸が痛んだ。

「……そうですね」

 澄人の荒い呼吸に嗚咽が混じった。真白はさりげなく顔を背けた。

 男だろうが女だろうが、こんな時の泣き顔は、誰にも見られたくないに決まっている。

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