第72話 きさらぎに雨が降る⑬
「帰ってきたみたい。これで真白は
口にした瞬間、六花は胸を氷の短剣で突き刺されたような気分になった。自分は男にいいようにされるのが、血を吐くほど嫌だったのに。
「はい。そのように調合しましたから。――
言われるままに、真白は六花の腕から抜け出して立ち上がった。久野座は満足そうにうなずく。
「問題はなさそうですね。これなら、神格接触者として我々が望む知識も引き出せるはずです」
「……真白はどうなったの?」
訊くまでもないことを六花は訊いた。どうなったのかなんて、一目瞭然だ。
「我が神に出会ったことで自我が溶け、夢うつつの状態ですね。元に戻ることは決してありません」
久野座の説明は、この上なくわかりやすかった。
訊かなければよかったと、六花はたちまち後悔した。
真白の目には、いつもの黒曜石みたいな輝きはない。永遠に失われてしまったのだ。他ならぬ、六花のせいで。
「……そう」
「おや、さすがに良心が痛みますか」
「まさか。真白が正義の味方を目指すなら、あたしは悪の道を突き進むよ」
強がりではない。
もう決めたのだ。これからは勝手に、自由に生きる。そのためならどんな犠牲も厭わない。
「正義とか悪とか、視点の問題だと思いますがね」
「それは大人の意見だよ。あたしたちはまだ中学生なんだから」
「そういえばそうでしたね」
椅子を引いて立ち上がった久野座が、机を回り込んでこちらに向かってくる。
「さあ、姫咲さん。こちらに」
久野座が手を伸ばし、真白は幼児のようにふらふらと歩いていく。
そして、久野座まであと一歩というところで、真白はぴたりと足を止めた。久野座は真白の頬に手を伸ばす。
「よしよし。いい子ですね」
「いいえ、悪い子ですよ」
そう言うなり腰に手をやった真白はナイフを抜き、久野座にぶつかった。
「……え?」
久野座は自分の腹を見下ろす。深々と、ナイフが突き刺さっていた。それでようやく久野座は自分の身に起きた事態を理解したらしい。
「そんな……。洗脳は完璧だったはず……」
うめいて、久野座は後ずさった。
「自力で解いたみたいです。誰かに手伝ってもらった気もしますが、よく覚えていません」
「馬鹿な。そう簡単に解けるものでは……。まさか……!」
心当たりでもあるのか、久野座は大きく目を見開いた。
真白は机に立てかけられていた散弾銃を念動力で引き寄せると、久野座の胸に照準して引き金を引いた。
近距離で散弾を食らった久野座はひとたまりもなく吹っ飛んで倒れた。床に血だまりが広がっていく。倒れた久野座に向かってだめ押しとばかりにもう一度発砲し、真白は六花に向き直った。
「これで任務は完了しました」
真白の瞳には、黒曜石の輝きが戻っていた。
「――そうだね」
「あとは六花だけです」
真白は散弾銃の銃口を六花に向けた。六花は肩をすくめる。
「あーあ。失敗か」
真白になにが起こったのか、六花にはまるでわからなかった。ただ、久野座の企みが潰えたということだけはわかる。
つまりそれは、六花の望みの一つも消え失せたということだ。
母親は、もう、元には戻らない。
「六花。投降してください」
「無意味だよ」
保安部を裏切った自分は間違いなく処分される。どんな理由があろうと決して覆らない。この場で真白に撃たれるのと、結果は同じだ。
「だとしても、正当な裁きを受けるべきです」
任務従事者になる前からすでに罪人である自分たちに正当な裁きもなにもあったものではないが、真白もそれは承知の上だろう。
どこまでも真面目な子だ。やはり彼女にこんな仕事は向いていないと改めて思う。
「なら、真白が裁いて。いま、ここで」
逃走するだけならたやすい。真白を魔眼で縛ってそのまま逃げればいい。だが、最初の追っ手に選ばれるのはおそらく真白だ。ならば、後腐れなくここで決着をつけてしまいたい。
真白を殺すのに抵抗がないと言ったら嘘になるが、一度裏切った相手なのだ。今更情けをかけるのは違うと思う。
「六花……」
「安心して。無抵抗でやられたりなんてしないから」
真白に負けるとは思わない。それどころか、一対一で六花に勝てる人間はおそらく保安部にはいない。たとえ
「本気なんですね」
六花は不敵に笑ってみせる。
「あたしは真白を殺し、
「それが六花にとっての自由なんですか」
「不満なら止めてみせてよ。正義の味方になるんでしょ」
「――わかりました。私は六花と戦います」
言うなり、真白は散弾銃を足下に置いた。
素手か。
あくまでこちらの命を取るつもりはないらしい。
苦笑が漏れた。
見当外れのやさしさだ。こちらは殺すつもりなのに。
苦笑はすぐに消え、怒りが取って代わった。
「なめないでよ!」
六花は停止の魔眼を発動し、真白の動きを止めた。すかさず身を翻して机の上のスコーピオンに飛びつく。
が――。
つかみ取る直前、スコーピオンは吹き飛んで机の向こうに落ちた。
「な……」
見れば真白が手を伸ばしている。
――念動力?
間違いなく魔眼は効いたし、力も封じた。なのに、なぜ。
もう一度。
六花は真白をにらみつける。
距離を詰めようとしていた真白の動きが、一瞬だけ止まる。だが、一瞬だけだ。すぐさま動きだした真白が、ネコ科の猛獣のように近づいてくる。
「嘘でしょ!」
無効化ではない。打ち消されている。
信じられない。
服用したペイルホースの効果はまだ続いている。魔眼の力はいつもの比ではないというのに。
念動力か、それとも六花の知らない未知の力か。ペイルホースと違って、銀の鍵に異能を増す力はないと久野座は言っていたのだが。
なんにせよ分析している暇はない。
六花は腰の鞘からナイフを抜くと、真白の足下目がけて投擲した。真白は弧を描くようにしてナイフを躱す。
当たれば儲けものだったが、十分だ。
わずかに稼げた時間で後ろに飛び退いた六花は、先ほど奪って投げ捨てた真白のファイブセブンを拾い上げた。
照準、発砲しようとする六花の手に、本棚から飛び出した本が直撃する。
「っつ……」
真白の念動力だ。こざかしい真似をする。
危うく拳銃を取り落としかけたが、なんとか銃把を握りなおす。
ファイブセブンの銃把は大きく、握りにくい。デザートイーグルもだが、真白はあんな小さな手でよくこんな銃を扱えると思う。
「……!」
六花がもたついた一瞬の隙をつくように、本棚から次々と本が飛び出した。
大量の本が六花の周囲を乱舞し、視界が遮られる。
「目くらましのつもり?」
六花はファイブセブンを構えながら、神経を研ぎ澄ませる。
どこだ。どこから来る。
唐突に、左手側の本の壁が割れた。真白が飛び出してくる。素早く狙いをつけ、引き金を絞る。
瞬間、ファイブセブンの銃口が透明な指で弾かれたように不自然にぶれた。銃弾は真白の上方向に飛んでいき、天井に当たる。
それが合図だったかのように、動きを止めた本が一斉に落下する。
同時に、六花に接近した真白が回し蹴りを放つ。防御は間に合わず、脇腹に鋭い蹴りが突き刺さった。
「ぐぅ……!」
痛みをこらえながら、六花はファイブセブンの銃口を真白に向ける。
――この距離ならば。
だが、引き金を引くことはできなかった。
固い。びくともしない。
なぜと思う間もなく、真白の蹴りが六花の手を直撃した。ファイブセブンが宙に舞い、本の山の中に埋もれるように落下する。
痺れる手を押さえて問う。
「……ひょっとしなくても、いまのも真白の念動力?」
対面に立つ真白は答えなかったが、間違いないと思う。
しかし、一体どういうことか。
人に直接使えないのは相変わらずのようだが、力の操作の精密さが段違いだ。それとも、これが本来の真白なのだろうか。
「――まあいいよ」
六花は上着の袖口に仕込んでいたナイフを抜いた。
銃にこだわったのが間違いだった。接近戦で圧倒すればいいのだ。
六花はナイフを振るう。狙いは頸動脈。すんでのところで真白が躱す。
いまの真白なら、六花が強く握りしめるナイフですら念動力で奪えるかもしれない。
動きを止めたら的になる。六花はひらすら攻め続けた。
攻守は完全に逆転していた。
六花が一方的に攻撃し、真白は反撃の糸口もつかめず、ただ回避するのみだ。
能力なしの模擬戦で、六花は真白に一度も負けたことがない。射撃訓練での成績も常に上回っている。
任務で一緒になったときは、六花がサポートするのが常だった。
優秀ではあるのだけど、どこか危なっかしい。
そんな真白は、六花にとって妹分みたいなものだった。
自分が目をかけていなければだめだと思っていた。
汚れきった自分とは違う。真っ白で大事な存在だったのだ。
なのに。
ナイフと視線でフェイントをかけ、無防備になった対角線上の膝に足刀蹴りを叩き込む。体勢を崩した真白の顔面目がけ、後ろ回し蹴りを放った。腕で防ぐが勢いは殺しきれず、真白は大きくよろめいた。致命的な隙だった。
急所にナイフを突き入れれば終わる。
だが、六花はそうしなかった。
ナイフを下ろす。
「――真白ってさ、私服のセンスがいまいちだよね。荒れがちな手のケアもずさん。せっかくきれいな薄褐色の肌をしているのに、自分の見せ方も下手だし」
真白はいぶかしげな顔をした。
「仕事が仕事だからって、諦めてない? 任務従事者だからこそ、気を遣わなくちゃ」
「……なんですか、突然」
不承不承といった様子で、真白は口を開いた。
「やっと話してくれた。戦闘が始まってから、一言もしゃべってくれないんだもの」
「六花と私は敵同士です。会話は必要ない」
「敵ね。その割に、殺意がないみたいだけど」
「無力化で十分です」
六花は嘆息した。
この期に及んでまだ言うか。頑固者め。たったいま殺されかけたのに。
「――じゃあ、こういうのはどう。あたしは、真白を殺したあとに
「二人は関係ない!」
真白は声を荒げた。さすがに効いたらしい。六花は意識して唇の端をつり上げる。悪役も思ったよりは悪くない。
「あるよ。大あり。だって真白の大切な存在だもの。あたしにはそんなのいない。だから、奪ってやったらきっとすっきりする。いい考えでしょ」
「六花……!」
真白は、燃えるような瞳で六花をにらみつけた。こういう目もできるんだと思う。クールに見えて、情熱的な部分もあるらしい。
「せめてナイフを使いなよ。じゃないと真白が死ぬよ。そうなったら本末転倒でしょ」
六花は床に突き刺さっているナイフを顎でしゃくった。六花が投擲したナイフだ。
真白は六花をにらみつけたまま、ナイフに向けて手を伸ばす。するりと、床から抜けたナイフが真白の手に収まった。いつ見ても便利な力だ。
届きそうで届かないリモコンを取ったりとか、日常生活で使えたら楽できそうだが、真白はそうした使い方をしているのだろうか。
――たぶん、してないんだろうな。
真白が順手でナイフを構えた。
「そう。それでいい」
六花はうなずく。
「行くよ、真白!」
二人はナイフを駆使し、攻防を繰り広げる。
真白の攻撃の癖はわかっていた。呼吸のリズムも。それらを利用しながら、六花は的確に攻撃を組み立てる。
ナイフで、体術で、真白を翻弄する。魔眼を使わずとも、六花の実力は真白を遙かに凌いでいた。
しかし――。
何度もあと一手というところまで迫るのに、どうしても決めきれない。
手加減しているわけでは決してない。その証拠に、真白はすでに傷だらけだ。模擬戦だったらとっくに六花の勝ちで終わっている。
――この子、こんなにしぶとかったっけ。
実力差は明らかだった。真白に勝ち目はない。真白もわかっているはずだ。だが、肩で息をしながらも、真白の目から闘志は失われていなかった。
以前の真白には見られなかった、強い意志を感じた。
――正義の味方か。
ふと、真白のひたむきさが羨ましくなった。どうしてそんなに一生懸命になれるのだろう。
程度の差はあれども、自分たち任務従事者の境遇は似たり寄ったりだ。
地獄を経験し、保安部という新たな地獄に放り込まれた。
悪人や人の脅威となるあやかしを始末する。いくら取り繕っても殺しは殺しだ。
罪を償うために命を上塗りする虚しさに、きっと真白だって気づいているはずなのに。
六花が動きを止めたのを好機と見なしたのか、真白がナイフを振るう。フェイントを混ぜているが、狙いは足だ。見え見えの軌道を、六花は右足の動きだけで躱した。
もういい。今度こそ終わらせる。
残した左足を使い、真白の側面に回り込む。
「――え?」
踏み込みつつ、一気に頸動脈を掻き切ろうとしたところで、死んだはずの久野座がゆらりと立ち上がるのが見えた。
久野座は、真白に向けて手をかざす。位置的に死角なので、真白は気づいていない。
とっさに、六花はナイフを捨てて肩口から真白にぶつかった。
刹那、腹部に重い衝撃を感じた。
「ぐ……ぅ……」
見下ろせば、触手のような形状に変化して伸びてきた久野座の腕が、六花の腹部を貫いていた。
「くそ、邪魔が入ったか」
久野座がうめく。ずるりと、六花の腹部から触手が引き抜かれた。うそみたいに大量の血が流れ出す。これは助からないなとどこか他人事のように思った。不思議と痛みはなかった。
「……あ」
六花の視線を追った真白の顔が、一瞬で怒りの色に染まる。
「姫咲真白。私はあなたを諦めな――」
「あああああぁ!」
真白が吠えた。瞬間、久野座の身体がぐしゃりと潰れた。まるで巨大な鉄槌に叩き潰されたみたいだった。
「へえ、やるじゃん……」
呟いて、六花は膝をついた。
魔術師にはきっちりととどめを刺さなければいけない。忘れていたわけではないが、まさか久野座が生きているとは思わなかった。でも、今度こそ終わりだ。
「六花、六花!」
真白が倒れそうになった六花を抱き留める。その顔が必死すぎて、なんだか笑えた。
「……あたしは敵だってば」
「でも、私をかばって……」
「……かばったわけじゃないよ。身体が勝手に動いただけ」
自分でも、どうしてあんなことをしたのかわからない。不可解だ。
真白が妹みたいだというのは、命を張る理由になるはずがなかった。本当の家族をないがしろにした自分が、家族でもない相手に命をかけられるわけがないのだから。
「……なんでだろうね。あたしは、真白を殺そうとしてたのに……」
身体から力が抜けていく。
ああ、やっとだ、と思う。
やっと、自由になれる。
男たちを殺したあの日から、いや、母に売られた瞬間から、自分はずっと生き方を強いられてきた。
それも終わる。
でも、その前に、言っておきたいことがあった。
最後の力を振り絞り、六花は口を開く。
「ねえ、真白……」
「……なんですか、六花」
「あたしは、あの日の自分が罪を犯したとは思ってないよ」
自分を
母の顔が思い浮かぶ。
罪らしき罪といえば、そう――。
「お母さん……」
ひどい母であったのは間違いない。母のせいで、自分は人としての尊厳を踏みにじられた。殺したところで自分は涙の一滴も流さない。
だけど、理不尽な力で生きる権利を奪ってしまったのは申し訳ないと思う。
母はどうしようもない人ではあったが、悪人ではなかった。世間から見たらどうか知らないが、少なくとも六花の中ではそうだった。
彼女は弱かっただけなのだ。そして自分はそんな母を拒絶した。他の誰よりも、助けを必要としていたのかもしれないのに。
手を握ってもらった記憶はない。
そしてあの日から、自分は母の心臓をつかんだままずっと離せないでいたのだ。
だから叶うのならば、ただ一言だけ告げたかった。
「……ごめんなさい」
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