第35話 きさらぎ駅でつかまえて④

 五月、ゴールデンウィーク直前のことだった。

真白ましろちゃん、ゴールデンウィークはどこかに行くの?」

 休み時間、何気ない調子で紬つむぎが話しかけてきた。

「――」

 真白はとっさに返事ができなかった。完全に不意を突かれた。

 真白ちゃん、という紬の呼びかけ方が、あまりにも園実そのみに似ていたのだ。

「ごめん。なれなれしかった?」

 紬は不安そうに尋ねる。

 思えば、家でも学校でも、真白のことをちゃん付けで呼ぶのは園実以外いなかった。

 似ていると感じたのは、だからなのかもしれない。

 真白は緩く首を横に振った。

「いえ、ちょっと驚いただけです」

「いやだったらやめるけど……」

 決して不快ではない。それどころか、ほのかに胸の奥が暖かい。

 もしかして、自分はうれしいのだろうか。

「――いやでは、ありません」

 自分の感情に戸惑いながらも真白が言うと、紬はほっとしたように微笑んだ。

「よかった。急に距離を詰め過ぎちゃったかと思った」

 物怖じしないように見える紬だが、熟慮があったのかもしれない。だとすれば、自分に対して気を遣ってくれたのがありがたかった。

 ならば、自分も――。

 真白はつばを飲み込み、口を開いた。

晴山はれやまさ……、紬、ちゃんは、どこかに行くんですか? ゴールデンウィーク」

 誰かをちゃん付けで呼ぶのは久しぶりで、それなりに勇気が必要だった。

 自分こそ、なれなれしくなかっただろうか。

 紬の反応を見るのが怖くて、真白はすぐに目をそらした。

「予定はないけど、行ってみたいところはあるよ」

 どこに? と真白が訊く前に、近くにいたクラスメイトが「えー、どこどこ」と割って入ってきた。会話に参加する機会をうかがっていたらしい。

「あたしはやっぱりディズニーランドかな」

久我森くがもり遊園地は?」

「ないない。あそこのジェットコースター、めっちゃしょぼいじゃん」

 あっという間にクラスメイトたちが集まってきた。

 真白はそっと席を立ち、教室を出る。

 出たはいいが特に行く当てはなく、廊下をぶらぶらと歩きながら、さっきクラスメイトが口にした遊園地のことを思う。

 久我森遊園地――久しぶりにその名前を聞いた気がする。

 泉間せんま郊外にある遊園地で、動物園も併設されている。小学校低学年の時、両親に連れられて遊びに行った記憶があった。

 真白は遊園地よりも、動物園の方が好きだった。特に虎がお気に入りで、岩の上で悠然と寝そべる虎に見入っていた。

 虎も動かなかったけど、それ以上に真白が動いてくれなくて困ったと、あとでお父さんとお母さんが笑っていたっけ。

 自分では気づかなかったが、三十分以上、展示場のガラスケースに張り付いていたらしい。両親が困るのも当然だ。

 かけがえのない、大切な記憶だ。

 真白は制服の胸元をつかむ。

 間違いなく、楽しい思い出なのに――。

 どうして、苦しいくらいに胸が締めつけられるのだろう。


「真白ちゃん。この後、時間あるかな」

 放課後、真白が帰り支度をしていると、小声で紬が話しかけてきた。

「ありますけど……」

 定期検診も共同訓練も終わったばかりで、任務もない。久しぶりになにも予定がなかったので、積んでいた大作RPGでも始めようと考えていた。

「だったら、『マスタードーナツ』に付き合ってくれない?」

 六花りっかだったらハンバーガーショップを提案するんだろうなと思いつつ、真白は「いいですよ」とうなずいた。ゲームはいつでもできる。

「よかった。じゃあ、行こう」

 紬は話しかけてくるクラスメイトにそつなく挨拶しつつ教室を出ていき、真白は少し後ろに続く。

 通学路を外れてちょっと歩いたところに、目指すドーナツショップやカフェなどの飲食店が集まる一角がある。

 一応、放課後にそういった場所に立ち寄るのは学校で禁止されてはいるが、真白が通う中学はそのあたりはあまり厳しくない。教師たちも見回りする余裕はないようで、実質野放し状態だ。

 マスタードーナツの店内に入った紬は、手慣れた様子でショーケースのドーナツをトレイに乗せていく。

 どうやら、お店の人ではなく、自分でドーナツを取ってから精算する仕組みのようだ。あたふたしながらも、真白はいくつかドーナツを選んだ。レジで紬がカフェオレを頼んだので、真白も同じものを注文する。

 二人は、目立たない端っこの席に腰を落ち着けた。

「慣れているみたいですけど、よく来るんですか?」

「たまにね。真白ちゃんは?」

「家族が買ってきてくれるのを食べたことはありますが、店で食べるのは初めてです」

 茉理まつりのことを家族というとき、真白はいつもくすぐったいような気持ちになる。そして同時に、かすかな罪悪感が胸の中の柔らかな部分を突き刺す。

 茉理は真白を家族と認めてくれているが、自分は茉理を家族と呼んでいいのだろうか。その資格が、自分にはあるのだろうか。

「店内だと、たまに作りたてが食べられるよ。当たったらラッキーだね。これは違うみたいだけど」

「そうなんですね」

 真白はオールドファッションをかじる。同じものなのに、家で食べるのとは微妙に味が違う気がした。おいしいのに変わりはないのだが、不思議だ。

「紬ちゃんが行ってみたいところって、どこですか」

 一つ目のドーナツを堪能し終えた真白は、そう切り出した。

 紬は驚いたようにわずかに目を見開く。

「私をここに誘ったのは、さっきの続きを話したかったからですよね。クラスメイトがいない場所で」

「……わかる?」

「なんとなく、そんな気がしました」

 あまり、おおっぴらには言えない場所なのかもしれない。危険な場所とは思えないが――。

「そっか……」

 カフェオレを一口飲んだ紬は、意を決したように口を開いた。

「真白ちゃんは、きらさぎ駅って知ってる?」

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