第13話 スプーンを曲げた日⑨

 鈍い音と共にすさまじい激痛が走った。目の前が赤く点滅する。母の悲鳴が聞こえる。

 真白ましろは震える手で額を押さえた。ぬるぬるしている。

 視界の左側が赤く染まっている。ぽたぽたと床に落ちる赤い液体は、自分の血だろうか。頭がガンガンと痛む。風邪の時の頭痛とは比べ物にならない。痛みでどうにかなってしまいそうだ。

「だめだよな。バケモノが人間に混じって暮らすなんて。異物はきちんと処分しないと」

 父は笑みを浮かべた。あの、見た人を和ませる笑みだった。

「最初から止めておけばよかったんだ。おまえがスプーンを曲げるなんて思わなかったよ。――あんなわけのわからない力、この世界にあっちゃいけないのに。だから、おふくろも、おやじも……」

「う……あ」

 恐怖と痛みで、真白は動けなくなった。

 父はなにを言っているのか。なにをしたのか。これからなにをしようとしているのか。

 父はこんな人じゃないはずなのに。

 いっそ別人だと言われた方がまだ納得できる。

 だけれども、目の前にあるのは紛れもない父の笑顔だった。それがたまらなく怖い。

「ごめんな、真白。痛いだろ。今、楽にしてやるから」

 父は動けなくなった真白をやさしい目で見つめ、灰皿を振りかぶる。

 麻痺しかけた頭で、真白は自分の運命を知った。


 ――そっか。わたし、お父さんに殺されるんだ。

 

 その時だった。

「和則さん、やめて!」

 母が父を突き飛ばした。よろめいた父は、血走った眼で母をにらんだ。

「邪魔をするな!」

 父は左手で母の首をつかみ、持ったままだった灰皿を母に叩きつけようとする。

 いけない、と真白は思った。

 止まって、とも思った。

 すると、真白の思いが通じたのか、父がぴたりと動きを止めた。父の手から滑り落ちた灰皿が床に落ちて、ごとんと重い音を立てる。

 続いて母の首から手を離した父が、くたりとくずおれた。

「あれ?」

 何かおかしい。

 真白は間違い探しを始める。さっきの父と今の父、どこが違うのだろう。

 答えはすぐにわかった。

 父の首が、奇妙な方向にねじ曲がっていた。

「あ……え? なんで……?」

 混乱しながら、真白は膝をついた。

 致命的な間違いだった。

 でも、そうだ。間違っているなら直せばいい。

 真白は力を使って、父の首を正面に向けた。これで何もかもが元に戻るはずだ。

 そのはずなのに。

 父の首が力なく横向きになる。

 父は一言も喋らない。目は開いているのに。

 もう一度やろうとして、母に肩をつかまれた。

「真白」

「お母さん。お父さん、どうしたのかな」

 母はそっと父のまぶたに触れ、離した。父の目は閉じていた。

「ありがとう。真白は、お母さんを守ってくれたんだね」

「あ……」

 そうだ。自分は母を守ろうとした。

 そして、そして――。

「わたし、お父さんを殺しちゃったの?」

 それは、身も凍るような恐ろしい答え合わせだった。

 違うと言ってほしかった。お父さんは死んでなんていないよと。

「真白は悪くないよ。悪いのは、お母さんとお父さん」

 母はやさしい声で言って、悲しそうに笑った。真白はすべてを察した。

 

 自分は、父を殺したのだ。

 

 底なしの穴に落ちていく気がした。

 殺すつもりなんてなかった。ただ、父を止めたいと思っただけなのに。

「だいじょうぶ」

 母が真白の首に手をかける。

「真白は何も心配しなくていいから。お母さんもすぐにいくからね」

 母の手に力がこもった。

 苦しい。息がうまくできない。

 真白は戸惑った。

 なんで。どうして。お母さんまでわたしを殺そうとするの。

 真白は母の震える手を引きはがそうと自分の手を伸ばす。

 だが、母の顔を見て思い直した。

 母の目には怒りにも憎しみもなかった。ただ、真白を気遣うやさしさだけがあった。

 ならば、これでいいのかもしれない。

 抵抗を止めて、真白は手を下ろした。目を閉じる。

「ごめんね」という母のつぶやきが聞こえた。

 謝ることなんてないのに。

 真白の意識は闇に沈む。


 次に真白が目を開けると、近くに母が倒れていた。首と床が真っ赤だった。

 母の手元には包丁が落ちている。これからはもっとおいしいご飯を作るねと、新しく買ったばかりのぴかぴかの包丁だ。刃は赤く染まっていた。

「……お母さん?」

 返事はない。二度は呼びかけなかった。

 頭と喉がひどく痛む。

 真白はのろのろと起き上がると、うまく動いてくれない身体を引きずるようにして子ども部屋に向かった。机の引き出しから紙を取り出す。

 リビングに戻り、受話器を手に取った。紙に書いてある数字を順番に押す。相手はすぐに電話に出てくれた。

『はい、花見川はなみがわです』

 茉理まつりの声を聞いた途端、真白は泣きそうになった。けれども、泣いている場合ではない。

「――もしもし、姫咲ひめさき真白です。覚えていますか」

 かすれた声は、自分の声じゃないみたいだった。

『もちろん覚えてるわよ。こんな時間にどうしたの?』

 壁時計に目を向ける。深夜0時を過ぎていた。大晦日でもないのに、こんな時間まで起きていたのは初めてだ。

「花見川さん。わたし、お父さんを……」

 本当なら、警察に電話するべきだったのかもしれない。でも、真白は最初に茉理に話を聞いてほしかった。

『――お父さんを?』

 殺したの一言が、どうしても出てこなかった。

「お、お父さんの首が変な方に曲がって、どうやっても元に戻らなくて、そのあと、お母さんが、わた、わたしを……」

 喉がぐっと詰まって、あとは言葉にならなかった。

 母は真白を殺し損ね、そして自分だけ死んでしまった。ぴかぴかの包丁で首を切って。

『姫咲さん?』

「二人は死にました。わたしは、どうしたらいいですか」

 肺の中の空気を絞り出し、かろうじてそれだけを言う。

『――いま、家よね。すぐに行くから、待ってて』

 ただならぬ気配を感じたのか、茉理はそう言って電話を切った。

 受話器を置いて、真白は壁にもたれかかった。ずるずると座り込む。

 茉理は警察を連れてくるだろうか。それならそれで構わない。たとえ信じてもらえなくても、ありのままを話そうと思う。きっと許されないだろうし、自分もそれを望まない。

 スプーンを曲げたあの日から、自分は間違った道を歩き続けてきたのだと思う。

 引き返すことも、違う道を選ぶことも、あるいはできたのかもしれない。けれど真白は何度も何度も間違えた。そうして行きついたのがこの地獄だ。

 真白は寄り添うように倒れている両親に目を向ける。

 どうしてお父さんとお母さんはわたしをきちんと殺してくれなかったの。

 わたしは残された。置いていかれた。

「なんで……」

 わたしだけ生きているの。


 リビングの床に横たわる両親は、何も答えてはくれなかった。

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