第二章 適切な距離
第14話 適切な距離①
住宅街の中心部から少し離れた場所にある一軒家の前で、
走り去る車を見送って、真白は以前住んでいた家とは似ても似つかない家の前に立つ。
この、少し古ぼけた感じがする木造の平屋がいまの真白の住処だった。
冷たい風が吹き、真白は身を竦めた。真冬の夜の寒さが身の内に染み入ってくるようだった。
家には暖かな明かりが灯っている。
改めて自分の格好を確認し、真白はため息をついた。これではまた心配をかけてしまう。
真白はポケットから猫のキーホルダーがついた鍵を取り出し、玄関のドアを開けた。
「――ただいま」
小声で言う。すぐに居間から
「おかえりなさい」
メイクをしていなくても、茉理はきれいだと思う。もっとも、真の意味での茉理のすっぴんを、真白は見たことがない。
と、茉理のきれいな顔がくしゃりと歪んだ。予想はしていたが、胸が痛む。
「血だらけじゃないの」
「平気です。怪我は
ドアを閉め、靴を脱いで揃えた真白は廊下に上がる。
「そう……」
本当なら病院に行くのを勧めたかったのだろうが、茉理はそうしなかった。真白の病院嫌いを、茉理はよく知っている。
「お風呂、沸いてるわよ」
任務が終わったと、織戸から連絡が行ったのだろう。真白の帰宅に合わせて準備してくれたに違いない。
だが――。
「せっかくですけど、シャワーで済ませます」
血を落とすだけならシャワーで十分事足りる。今日はもう、入浴すら億劫だった。眠れるかどうかはわからないが、早くベッドに横になりたい。
「だめよ。こういう時はゆっくり肩まで湯船につかるの」
「こういう時って?」
茉理はやさしく真白を抱きしめる。
「心と身体が強張って、がちがちに固まっているような時よ」
茉理にはお見通しだったらしい。
真白はたまらず茉理の胸に顔をうずめた。たくましい、男性の胸だ。安心するような、いい匂いがする。茉理が洗濯に使っている柔軟剤の匂いだ。母が使っていた柔軟剤とは違う匂いだが、安心するのは同じだった。
「十四って、答えたんです」
「うん?」
仕事の後、何があったのか茉理からは訊いてこない。ただ、真白から話す時は、きちんと聞いてくれる。
「今日、始末する前に男の人に歳を訊かれて、見栄を張りました」
真白はまだ十三だ。
なんで嘘をついたのか、自分でもよくわからない。子どもだと侮られたくなかったのか、それとも別の理由でもあったのか。
いずれにせよ、これから殺す相手だったのに。
「――そっか」
「茉理。私は、正しいことをしていますか」
罪を償うため、そして、尋常ならざる力を持つバケモノである自分が人の世に混じって生きるため、正しいことをする必要がある。
だから自分は悪者の命を奪う。納得はしているつもりだ。
だけれども、時々こうやって確認しないと、たまらなく不安になる。
真白の何度訊いたかわからない同じ問いかけに、茉理は決まっていつもこう答えてくれる。
ええ、真白は間違っていないわ、と。
茉理の言葉は、真白にとっておまじないみたいなものだ。安心できる、おまじない。
茉理は真白の頭を撫でて言った。
「間違っているとしたら、私たち大人の方よ。だから安心して」
思いがけない言葉だった。安心と言われても、かえって不安をかきたてられた。
「茉理は違いますよね。間違いませんよね」
「まさか。私だって間違うわ。調子に乗った結果、退治されたりね」
酔っぱらった時なんかに、茉理が口にする話だ。
嘘か真か、平安時代、茉理は高名な武者に退治されたことがあるらしい。なんでも、弓矢で射落とされたとか。
「私を、引き取ったことは?」
茉理はそっと身を離し、真白のおでこを長い人差し指でつつく。
「あなたと暮らすことにしたのは大正解よ。慣れない子育てで苦労はしたけどね」
「そうですか……。試すようなことを言って、ごめんなさい」
背後に様々な大人たちの思惑があったとしても、茉理が真白に注ぐ愛情に偽りはない。それは痛いほどに感じている。
「いいのよ。――真白こそ、嫌にならない? 私みたいなあやかしと一緒に暮らすの」
人間離れをした美貌を持つ茉理は、文字通り人間ではない。
真白が人間の形をしたバケモノだとすると、茉理は人間の形をとっているバケモノ――あやかしなのだ。
様々な怪奇現象、直視することすら憚られる異形の怪物、種も仕掛けもない本物の魔術、そして、人に混じって暮らすあやかし――。
この世界に、妖怪変化や怪異は間違いなく存在している。自分の力もその範疇だと思う。
「私が茉理を嫌いになるなんて、ありえません」
あやかしだろうが人間だろうが関係ない。茉理は、真白が知るどんな人間よりもやさしかった。
「――そっか」
茉理は笑うと、もう一度真白を抱きしめた。
「さ、お風呂に入ってらっしゃいな。上がったらおいしいお茶を淹れるから、
「もう遅いですよ」
夜の九時を過ぎたら甘いものを食べたらいけないと、真白が小さいころから口を酸っぱくして言ってきたのは他ならぬ茉理だ。
虫歯になるし、何より身体に悪いというのがその理由で、茉理も真白に気を遣ってか、九時以降は甘いものを食べようとはしなかった。あやかしだから平気なはずなのに。
「甘いものは、こういう時こそ食べなきゃね」
こういう時とはどういう時か、もう、訊く必要はなかった。
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