第12話 スプーンを曲げた日⑧
その夜、大きな音がして
まぶたをこすりながら子ども部屋を出て、一階に下りると父が玄関先で大の字になっていた。見れば傘立てが倒れている。音の原因はこれかと思う。
父に近づくと、ぷんとお酒の匂いがした。酔っているのか顔が赤い。
父はとろんとした目を真白に向けた。
「おお、真白か。ただいま」
「おかえり、お父さん」
父が真白の名を呼ぶのは珍しい。今日は機嫌がいいみたいだ。
少しして、寝室から眠そうな顔の母が出てきた。
「遅かったわね」
立ち上がった父がよろけて倒れそうになる。母が慌てて支えた。
「お祝いで飲んでたんだ」
「お祝い?」
「ああ、俺、今度立ち上げるプロジェクトのリーダーに選ばれたんだよ」
父が嬉しそうな顔をするのは久しぶりだった。こちらまで嬉しくなる。
「すごいじゃない。おめでとう」
「うん、ありがとう」
母は父を引きずるようにしてリビングに連れて行き、ソファに座らせる。
「どうぞ」
母が水の入ったコップを差し出す。父は礼を言って、一気に飲み干した。
なんだか、ちょっとずつ昔に戻っていくみたいだと思う。今日はよく眠れそうだ。
「じゃあ、わたしは部屋に戻るね」
「真白、もうちょっといてくれる? とりあえず座って」
「? うん」
母に促され、眠るつもりだった真白は父の対面に腰かけた。隣に母も座る。
「あなた。話があるんだけど」
「なんだ、改まって」
「私たち、別れましょう。真白は私が引き取る」
嬉しそうだった父の顔が一瞬で強張った。予想外の言葉だったに違いない。そしてそれは真白も同じだった。失望が心を黒く塗りつぶす。
家族はいつかきっと元に戻ると信じていたのに。さきほどまでの希望はあっけなく潰えた。
もう、無理なのだろうか。
「おまえ、何もこんな時に」
「こんな時だからよ。あなたは最近話を聞いてくれないから。私たちのこと、避けてたでしょ」
「それは……」
「この家からも出ていく。いいわよね?」
「……いや、駄目だ」
父はうなるように言った。
「どうして? あなたが望んだことよ」
「みっともないだろう。リーダーが女房と子どもに逃げられたなんて」
「みっともないって、今更そんな理由で」
「俺にとっては大事な理由なんだよ! 俺がここまで来るのにどれだけ苦労したか。おまえならわかってくれるはずだろ!」
父がテーブルを叩く。大きな音に真白は身体をすくませるが、隣の母は身じろぎもしなかった。
「大体、飯や洗濯はどうするんだ。俺は仕事に専念したいんだよ」
「どこまでも自分のことばかりね。わかってくれるって言うけど、あなたは真白や私のことを理解してくれようとしたの?」
父は何も言い返さなかった。黙ってテーブルの上の灰皿を見つめる。
「和則さんはもう真白を愛せないんでしょう。そんな人と一緒にいたら真白がかわいそうだわ」
母が父の名を呼ぶのを、真白は初めて聞いた気がする。それは、母の決意の表れだったのかもしれない。
「偉そうに。おまえはどうなんだ」
父の顔は醜く歪んでいた。小さい頃に読んだ絵本に出てくる怪物みたいで怖かった。
「愛せます。私の血が流れているから」
母は真白を抱き寄せる。母の身体は小刻みに震えていて、それで母も怖いのだと知った。母は、怖いのを我慢しているのだ。真白のために。
「和則さん、言ったわよね。真白の力は私の血のせいだって。だったら、私が責任を持って育てる。和則さんにはもう頼らない。料理も洗濯も掃除も、これからは自分でやってください」
立ち上がった父は身を乗り出し、いきなり母を殴りつけた。母が床に倒れる。
突然のことに、真白は声も出なかった。
「認めない」
父が倒れた母を蹴りつける。父の顔には表情がなかった。
「俺は認めない」
お腹を蹴り、母がお腹をかばったら今度は背中を蹴る。何度も、何度も。
父が母に暴力を振るっている。あのやさしかった父が。
信じられないけど本当で、紛れもない現実だった。
家族を殴る父親なんて、テレビや新聞の中にしか存在していないと思っていた。
けど、違った。
父の暴力は止まらない。
どうしよう。このままでは母が殺されてしまう。
勇気を振り絞り、真白は父の足にしがみついた。
「お父さん、やめて!」
父はうっとうしそうに真白を引きはがした。真白は尻もちをつく。父はさほど体格がいいわけではないが、それでも子どもの真白の力では止められない。
力――。
真白には別の力がある。もう、父と母の前では使わないと決めた力が。
だけど――。
母を助けるためには、もう、これしかない。
母を踏みつけるつもりか、父が足を持ち上げる。させない。真白はとっさに力を使って、父の足を払った。いじめっ子を転ばせた時のように。
父が派手に尻もちをついた。立ち上がろうとする父を、真白は力で押さえつける。
「なんだ……? 身体が、動かない……?」
「お父さん。お母さんをいじめるのは、やめて」
真白がにらみつけると、父は目を見開いた。
「真白。これは、まさかおまえが……」
「そうだよ。お父さんの言う通り、わたしはバケモノだから、こういうことができるの」
真白は自分の胸に手を当て、パジャマを握りしめる。
母を助けることができるのなら、バケモノだろうと何だろうと構わない。いくらでも力を振るってやる。
「真白……」
よろめきながら立ち上がった母が真白を抱きしめた。
「あなたはバケモノじゃないよ」
「お母さん……」
「だからもういいの。お父さんを解放してあげて」
「でも……」
「お母さんはだいじょうぶだから、ね? ほら、お父さん、苦しそうでしょう」
言われて気づいた。父は苦しそうな顔をしている。知らないうちに、力をこめすぎていたらしい。
「わかった」
真白は力を引っ込めた。
「……ぐ……あ」
尻もちをついたまま、父は荒い呼吸を繰り返す。真白は謝らなかった。また父が母に暴力を振るおうとしたら、すぐに止めるつもりだった。
真白と母が見守る中、父は力なくソファに座り、うなだれた。大きなため息をつく。
それから父は顔を上げ、真白を見つめた。父の目には、さきほどまでの凶暴な光はなかった。
「……すまない。お母さんに手を上げるなんて、どうかしてた。全部、お父さんが悪かったよ。真白、仲直りしてくれるかい?」
父が両手を広げる。どういうつもりなのか。真白は困って母を見上げた。母は戸惑ったように眉をひそめている。
「こうして暴力を振るってしまった以上、離婚には応じるよ。その前に、真白を抱きしめたいんだ。思い出が欲しい。最後になるかもしれないだろ」と、父は母に向けて言って、弱々しく笑う。
「そういうことなら。――真白」
納得したのか、母は真白の肩をそっと押した。不安はあったが、真白も最後に父と触れ合いたかった。
真白はおずおずと父に近寄る。父は真白をそっと抱きしめた。お酒とタバコが混じった匂いがする。
急に胸がいっぱいになった。
父が母にしたことは許せない。この家を出ていくという母に、真白はついていくつもりだ。
だけど、一人残された父はどうなるのだろう。
きっと寂しいはずだ。悲しいはずだ。
――これから先、お父さんは一人で大丈夫なのかな。
そんなことを思っていると、父は真白の耳元で囁いた。
「真白、これがお父さんの責任の取り方だよ」
「え――?」
左手を真白の肩に乗せて、身を離した父は右手で灰皿をつかんだ。
何をするつもりなのか考える暇もなかった。父は灰皿を真白の頭に叩きつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます