第10話 スプーンを曲げた日⑥

 翌日、朝の会の時間になっても、教室には3分の2程度の児童しかいなかった。十人くらいは欠席のようだ。その中には園実そのみや、真白ましろが消しゴムをぶつけた男子も含まれていた。

 空っぽの机が目立つ教室は、普段より広く感じられた。児童たちの表情は一様に硬く、そのせいか、教室中にどんよりとした空気が立ち込めている。

「今日は一日自習です」

 教壇に立った室橋むろはしが言った。

「それで、きみたちには順番にカウンセリングを受けてもらいます。カウンセリングって、知ってるかな?」

 クラスで一番勉強ができる男子が手を挙げた。室橋が指名する。

「はい、小宮こみやくん」

「心や身体の悩みをカウンセラーに相談して、一緒に色々考えてもらうことです」

 カウンセリングというのは真白も聞いたことがあった。テレビのニュースで知って、自分の問題を話したら相談に乗ってくれるだろうかと考えたのを覚えている。

「そうだね。一昨日の出来事でショックを受けた人も多いと思うので、そのことを話すのもいいかもしれないね。あれには先生もびっくりしたよ」

 先生は穏やかに言うが、クラスの空気は晴れなかった。それどころか、一層ぴんと張り詰めた気がする。

 真白は不安になった。

 もしかして、学校は机を浮かべた犯人を捜しているのだろうか。

 だとしたら、絶対にばれるわけにはいかない。名乗り出て謝れないのは心苦しいが、隠し通すと母と約束したのだ。

 もしばれたら、実験所みたいなところに連れて行かれるかもしれない。そうしたらもう、家にはいられなくなる。

「でも先生、この学校って、スクールカウンセラーはいませんよね」

 小宮が言った。今はなんともない顔をしているが、彼は真っ先に逃げたのだ。立ち直れたのだろうか。

 室橋はうなずく。

「うん。なので、外から専門家に来てもらった。さっき会ったけど、とても個性的な人だったよ」

 個性的――。

 一体、どんな人なのだろう。怖い人じゃないといいのだけど。


 午後、真白の順番が回ってきた。

 カウンセリングの場所は一階の端っこにある会議室だ。真白がドアをノックすると、中から「入ってください」という男性の声が聞こえた。普段入ったことのない部屋なので、少し緊張する。

「失礼します」と言って、真白はドアを開けた。

「はじめまして。姫咲ひめさき真白さんね」

 会議室の真ん中、机を挟んだ向かいに、ものすごく整った顔をした男の人が座っている。首から吊るしているケースに入ったネームプレートを真白に見せて、

「臨時のカウンセラーの花見川はなみがわ茉理まつりです。よろしくね」と言う。

「……よろしくお願いします」

 茉理と名乗った男の人は、先生の言った通り、個性的だった。どう見ても男の人なのに女の人みたいな話し方をするし、雰囲気もそれっぽい。父が着るようなスーツを着ているが、母みたいにお化粧をしている。不思議な人だ。

 カウンセリングを終えて教室に戻ってきたクラスメイトたちがひそひそ話していた理由がわかった気がした。

「この小学校の給食、おいしいわね。私もさっき頂いたんだけど、びっくりしたわ」

 茉理は気楽な口調で言った。

 真っ先に机が浮かんだことを訊かれるのではと身構えていたので、真白は拍子抜けした。

「え、あ、はい。そう、ですね」

「姫咲さんにとっては、お母さんの料理の方がおいしいかしら?」

「メニューによると思います」

 真白は正直に答えた。

 少なくとも、カレーは給食の方がおいしい。

 決して母の作るカレーがまずいわけではない。給食のカレーがおいしすぎるのだ。月に一度のリクエスト給食でも、大抵カレーが選ばれるのがその証拠だ。

「姫咲さんは何が好きなの?」

「ゆで卵のマヨネーズ焼き……、あ、給食じゃなくて、お母さんの料理ですか?」

「どっちでも。給食ではゆで卵のマヨネーズ焼きが好きなんだ」

「はい。一度お母さんに頼んで作ってもらったけど、給食みたいな味じゃなくて、あ、でも、お母さんのもおいしかったです」

「やさしいお母さんなのね」

「――はい。とても」

 一瞬間があいた。一年前、自分がスプーンを曲げる前だったら、きっとすぐに認めることができたのにと思う。

 でも、母は変わった。いや、戻ったのだ。元の、やさしい母に。

「ところで、姫咲さんは最近何か気になることがあるかしら」

 さりげない口調で茉理は言った。

 来た、と真白は身体を固くする。

「気になること、ですか」

「ええ、なんでもいいわよ。身体のことでも、心のことでも」

 なにもありません。前もって、そう言おうと決めていた。しかし、茉理のこちらを包み込むような柔らかい雰囲気ゆえか、真白は気づけばこう言っていた。

「――名前」

「名前?」

「はい。真白って名前、わたしには似合わないのかなって思うんです。ちぐはぐで。わたしはこんな見た目だし」

 真白は自分で言って自分で驚いた。母にも話したことがなかったのに。

「そう? 私はきれいだと思うわ。真白という名前も、あなた自身も」

 やさしく言って、茉理は微笑んだ。

「――ぁ」

 どぎまぎしてしまって、言葉がすぐには出てこなかった。

「だ、だけど、男子はわたしをからかいます。バカにするんです。真白なのに黒いって」

「男の子は、姫咲さんが気になるのよ。構ってほしいの。そういう年頃なのね。素直に自分の気持ちを表現できないの」

 園実と同じようなことを言うので、ちょっとがっかりする。

「でも」と茉理は続けた。

「姫咲さんは嫌な思いをしているのよね。それはよくないわ。気になる女の子がいるなら、男の子はやさしくしなくちゃね。意地悪じゃなくて」

 茉理の言葉は、すとんと真白のお腹に落ちた。

 その通りだ、と思った。自分はこういうことを言ってほしかったのだ。

 やさしく接してもらえるのならば、こちらもやさしくできると思う。男子たちの本心は知らないが、真白にしてみれば彼らはただ意地悪なだけだ。

「そう、ですよね」

「姫咲さんの方から、やさしくしてみるのもいいかもね」

「……え?」

 今度は、すぐには飲みこめなかった。

「やさしい相手に意地悪するのは、難しいと思わない?」

 そういうことか。

 茉理の言う通りだと、頭の一部分では思う。だが、こちらから意地悪な男子たちにやさしくできるだろうか。それこそ、ひどく難しい。

 そこでふと気になった。

「――花見川さんは、どうなんですか?」

 小学生の真白でも、茉理のような大人は他の人とは違うとわかる。そして、変わっている人間を他の人間は見逃さない。真白はそれを小学校で学んだ。

「私? どうって、何が?」

「その、みんなと違って、いじめとか、ありませんでしたか」

「ああ」と茉理は納得したような顔になる。

「私の場合は、そうね。自分のパーソナリティ――個性が原因でいじめられたってことはないわ。まあ、集団生活の経験もないんだけど」

 ということは、学校に通った経験もないのだろうか。不思議に思ったが、これ以上ずけずけと訊くのは失礼な気がした。

「といっても、仕事で嫌なことを言われたり、不快な思いをすることはあるわね。そんな時にはどうすると思う?」

「怒る、とか?」

「笑うのよ。にっこりとね」

 言葉通り、茉理は笑みを浮かべた。思わず見惚れるような、素敵な笑顔だった。

「そうすれば、大抵の人は毒気が抜かれたような顔になるの。呆れられたりもするけど」

「わたしにも、できますか?」

「誰にだってできるわ。姫咲さんの笑顔を見れば、きっとみんな幸せになるでしょうね」

 真白は父の笑顔を思い出した。周りの人を和ませる素敵な笑顔を、もうしばらく見ていない。

「難しいけど、試してみようと思います」

 自分が笑えば、父はもう一度笑ってくれるだろうか。そうしたら、少しでも以前の父に戻ってくれるだろうか。

「ええ、そうしてみて」

「はい」

「さて、他に話したいことはない?」

 茉理はこちらの目を覗き込むようにして言う。真白は反射的に目を逸らした。

「あとは、ないです」

 嘘をついてしまった。胸が苦しくなる。

「わかった。じゃあ、今回はおしまいにしましょうか」

 茉理はポケットから手帳を取り出すと、何やら書き込み、ページを破って真白に差し出した。見れば名前と数字が書いてある。きれいな字だった。手帳といい、かっこういいなと思う。

「私の連絡先よ。何かあったら遠慮せずに電話して。いつでも話を聞くわ。お風呂やトイレの最中じゃない限りね」

 茉理は茶目っ気たっぷりに笑う。真白も釣られて口元が緩んだ。

「わかりました。ありがとうございます」

「そう、その笑顔。最高にかわいいわよ」

 言われて初めて、真白は自分が笑みを浮かべていることに気づいた。

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