第9話 スプーンを曲げた日⑤

 その日の夜、真白ましろはリビングでぼんやりテレビを観ていた。そろそろ寝なくてはいけない時間だったが、母は咎めなかった。

 咎めないといえば、学校のこともだ。

 学校から連絡は受けているはずだし、園実そのみの母と電話しているのを真白は聞いている。今日、学校で起こったことを、母は間違いなく知っている。なのに、何も言わない。

 玄関のドアが開く音が聞こえた。父が帰ってきたようだ。母は急いでリビングを出ていく。

「早く帰ってきてってお願いしたのに」

「仕方ないだろう。どうしても抜けられなかったんだ。今は大事な時期なんだよ」

 それから二人は声を落とし、何か話した後にリビングに入ってきた。

 そういうことかと思う。母は、真白を叱るのを父に任せたのだ。

 父は背広も脱がずにソファに腰かけると、タバコをくわえて火をつける。父はひどく疲れた顔をしていた。おそらく仕事だけが原因ではない。

 まずそうに煙を吐き出し、父は言った。

「今日、学校で幽霊騒ぎがあったんだって? 机が宙に浮いたとか」

 真白は父に目を向けた。父は真白を見ようとはしなかった。父も母も、真白がスプーンを曲げたあの日以来、目を合わせてくれない。

「おまえがやったのか」

 真白は即答できなかった。怒られるのが怖かったし、何より、これ以上嫌われるのが怖かった。

「どうなんだ」

 重ねて訊かれ、観念した真白はこくりとうなずいた。父は怒ったように吸いかけのタバコを灰皿に押し付ける。

「授業参観に行かなかった俺たちに対する当てこすりか」

 真白は勢いよく首を横に振る。

 違う。そんなことは考えてなかった。

「だったら、どうしてだ」

 授業参観をめちゃくちゃにしたかった。あの時はそう思った。しかし頭が冷えた今、なぜあんなことをしたのか、自分でも理由がよくわからなかった。授業参観を台無しにしたところで、自分を取り巻く状況が好転したりなんてしないのに。むしろ、悪くなるだけだ。

 現に今、父は真白を叱ろうとしている。

「……ごめんなさい」

「俺は理由を訊いてるんだ」

「ごめんなさい……」

 理由はうまく言葉にできなかったし、できたとしても伝わるか自信がない。だから真白は謝るしかなかった。

 父はため息をつき、新しいタバコに火をつけた。

「わかった。もういい」

「ちょっと、あなた」

 母が困ったような声を出す。

「謝ってるんだから、いいだろう」

「そんな、また同じようなことが起こったら……」

「俺たちに何ができる? 病院にでも連れて行くか? 『この子、手も触れずにスプーンを曲げたり、ものを動かしたりできるんです』って? 冗談じゃない。俺たちの精神状態がまず疑われるよ」

「だからって……」

「だったらおまえがちゃんと躾けろよ! 俺に任せっぱなしかよ! こいつが変な力を持っているのは、おまえの血のせいだろう!」

 父は大声で怒鳴って、テーブルに拳を打ちつけた。母と真白は身体をすくませる。

「私の、血……?」

 小声で呟いた母は、まるで直接殴られたような顔をしていた。

 これまで父は母や真白に手を上げたことはない。だが、今日の父はひどく殺気立っており、これ以上怒らせたら何をするかわからない怖さがあった。

「……ごめんなさいお父さん。もう、しません。ぜったいに」

 真白はか細い声で言った。

「だから――」

 元のお父さんに戻って。そう言いたかった。

「わかったならいい。さっさと寝ろ」

 真白との対話を拒絶するように、父は投げやりに手を振った。

「……はい」

 昼間に続いて真白は思う。

 世の中の目に見えないルールを破った自分に対する、これは罰だ。

 真白はうなだれ、リビングを後にする。


 翌朝、目覚めた真白がキッチンに行くと、母が「今日は学校おやすみだって」と言った。気のせいか、いつもより声がやさしい。

「おやすみ?」

 どういうことだろう。平日なのに。

「真白のクラスだけね。学級閉鎖みたいなものかしら。さっき連絡があったの。おやすみしたい子がいっぱいいたみたい」

 納得した。皆、怖い思いをしたのだ。学校に行きたくなくなっても無理はない。自分は、本当にひどいことをしてしまった。

「……あの、お母さん」

「ん?」

「ごめんなさい」

 母に向かって、真白は深々と頭を下げた。

「わたしのせいで迷惑をかけて、嫌な思いをさせて、ごめんなさい」

「真白……」

 真白は顔を上げた。母が真正面からこちらを見つめている。

 驚いた。それ以上に、うれしかった。

 よかった、と真白は思う。決意を、母の目を見て伝えることができる。

 真白はパジャマの裾を握りしめた。

「お母さん。わたしね、色々考えたんだけど、わたしが施設に行くのが一番いいんじゃないかな」

「施設って?」

 母の瞳が戸惑ったように揺れた。

「お父さんやお母さんがいない子が行く施設。パソコンで調べたんだ。育てられなくなった子も預けられるって。だからお母さん、手続きをお願い」

 前々から考えていたことだったが、昨日の出来事で覚悟を決めた。このまま自分がこの家にいたら、誰も幸せにならない。

 父と母の元を離れるのが寂しくないと言えば嘘になるが、自分のせいで家がぐちゃぐちゃになるのを、これ以上見ていられなかった。

「そうしたら、お母さんはお父さんと一緒にいられるでしょ。お母さんはお父さんのことがいっぱい好きだから、嬉しいよね」

 真白がいなくなれば、きっと父と母は元通り仲良くなるだろう。そうなったら、真白も嬉しい。自分が側にいられないのは残念ではあるが。

「真白……!」

 ふわりと、真白は温かい感触に包まれた。

「お母さん?」

 母は、真白を抱きしめていた。

「ごめんね。私たちは、真白をそこまで追い詰めていたんだね」

「急にどうしたの?」

「真白、お母さんもね、色々考えたの」

「何を?」

「お母さんは、この家を出ようと思う」

「でも、わたしがいなくなれば……」

 母が出ていく必要はない。そのはずだ。

「真白も一緒だよ」

「え……?」

 母が何を言っているのか、真白はすぐには理解できなかった。

「お母さん、真白を連れていくからね」

 それは、つまり――。

「わたしが一緒でも、いいの?」

 真白が不安げに訊くと、母は真白の頭をなでた。やさしい手つきだった。

「うん。今までごめんね。――昨日、お父さんに怒鳴られて、はっとしたの。お母さん、真白と向き合ってなかったって」

「仕方ないよ。わたしが悪いんだから」

 自分は悪い意味で普通の子とは違う。自分のようなバケモノは、両親に愛されなくて当然だ。

「そんなことない!」

 母は一層強く真白を抱きしめた。ちょっと苦しかった。

「そんなことないんだよ、真白……」

 真白に、というより、自分に言い聞かせるように母は呟く。

 だとしたら、悪いのは誰なのだろう。

 母ではないし、父でもないと思う。

「私はお母さん失格だね。こんなんじゃ、私のお母さんに叱られるよ」

「お母さんのお母さんって、外国の人なんだよね」

 母の方の祖母には会ったことがない。真白が生まれる前に亡くなっていたからだ。

「そう。真白のおばあちゃんは、やさしくて、厳しい人だったの。女手一つで私を育ててくれたんだよ」

 それから母は身を離し、真白の肩に手を置いた。

「お母さん、今日はお仕事おやすみしたから、ずっと一緒にいるね。お昼と夜、真白の好きなものを作ってあげる」

「ほんとう?」

 二重の意味の問いかけだった。

 今日だけじゃなく、これからも一緒にいてくれるのだろうか。

 母は微笑んだ。

「うん、ほんとう」

 じんわりと嬉しさがこみあげてきて、真白は母に抱きついた。母は、拒まなかった。


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