第8話 スプーンを曲げた日④
ある日の昼休み、給食を食べ終えた
「あの噂、聞いた?」
「噂?」
「うん。この教室に、幽霊がいるっていう噂。ほら、最近変なことが続いているよね。シャーペンが折れたり、牛乳が爆発したり……」
ひやりとした。いずれも真白の仕業だ。
「そう……だね」
「あれ、幽霊がやったらしいよ」
真白はきょとんとした。どうしてそうなるのか。
やったのは真白だ。幽霊ではない。でも、知らない人からすれば、幽霊も、真白の力も、大して変わらないのかもしれない。
「本当だとしたら、怖いよね」
園実はそう言って笑った。
怖いというのは嘘ではないだろうが、園実はどこか面白がっているようでもあった。テレビの怖い話特集を観る時と同じような気持ちなのかもしれない。
「どんな幽霊なの?」
真白は一応訊いてみた。幽霊がいないことはわかっているのに。
「難しい病気で死んじゃった女の子の幽霊だって」
はっきりした答えが返ってくるとは思っていなかったので驚いた。
「学校がすごく好きだったらしいよ。だから、死んでも学校に留まってるんだって」
一体誰が考えた話なのだろう。もしかしたら、本当に死んだ児童がいたのかもしれない。
そう考えると、少し怖くなった。この教室に幽霊なんていない。いないはずだ。
だが、もし、本物の幽霊がいて、真白のことを見ていたとしたら?
幽霊の目には、真白はどう映るだろう。
「学校が好きなのに、いたずらするんだね」
怖さを紛らわせるために、真白はあえて明るい口調で言った。
「男子が真白ちゃんをいじめているように見えたのかもよ」
ぎくりとした。被害にあった男子たちがいつも真白をからかっているのは、クラス全員が知っている。
「きっと正義の幽霊なんだよ」
園実は確信のある口ぶりで言った。
「正義の……」
だとしたら、やっつけられなくてはいけないのはたぶん真白だ。自分がずるいことをしているという思いは、常につきまとっていた。
「でも、思い込みが激しいのかもね。男子たちは、真白ちゃんが嫌いなわけじゃないのに」
「――わたしは嫌いだけどね」
「え?」
小声でぼそりと言ったので、園実には聞こえなかったようだ。
「なんでもない」
真白は曖昧にごまかした。
事件は、授業参観の日に起こった。
みんなのお父さんやお母さんが教室に入ってきたが、その中に真白の両親はいなかった。父も母も、仕事を理由に来られないと言っていた。以前は都合をつけて必ず来てくれていたのに。
寂しくはあったが、諦めもあった。二人はもう、以前の両親ではない。両親は変わってしまった。おそらくは、真白がスプーンを曲げたせいで。
授業が始まった。算数で、先生に指名された男子児童が答えを間違えた。真白がシャーペンを折った男子だ。次に隣の真白が指名され、真白は正解した。
間違えた男子が小声で「誰も見に来てないくせに」と言った。
ざっくりと、心の脆い部分をえぐられた気がした。
うつむいた真白は唇を噛む。
聞き流せばいい。我慢すればいい。相手をするだけ時間の無駄だ。
そう思おうとした。でも、できなかった。
自分の無神経な一言がどれだけ真白の心を傷つけたかなんて、あの男子にはわからないだろう。
誰も見に来てない。その通りだ。
父も母も、真白を見たくないのだから。
世の中には目に見えないルールみたいなものがあって、自分はたぶんそのルールを破ってしまった。だからこれは、その罰だ。
悪いことをしたら報いがある。父の言う通りだった。
何もかも自分のせいだ。わかっている。それでも――。
真白の腹の底に小さな熱が灯った。
静かに着席した真白は男子の机の上にある消しゴムに目を留めた。力を使って持ち上げ、男子の額にぶつける。
男子は大袈裟な悲鳴を上げて、カエルみたいにひっくり返った。
「川井くん、大丈夫か!」
担任の
「せ、先生! い、いま、消し、消しゴムが勝手に動いて」
消しゴムが額に軽く当たっただけだ。大して痛くないはずなのに、額を押さえた川井は涙目になっていた。恐怖に怯えきった顔をしている。
「勝手に?」
室橋はいぶかしげに眉をひそめた。
「ぼくも見ました」「あたしも!」「おれも!」
川井の後ろの席の児童たちが口々に言う。
ざわめきは教室中に広がっていき、そして誰かが決定的な一言を口にした。
「幽霊がやったんだ!」
「幽霊……?」
「そういえば、息子が言ってました。この教室、出るって」
「まさか、そんな」
後ろの保護者たちまでもがざわめきだす。
違うのに。幽霊じゃないのに。
慌てふためくみんなを見ていたら、真白の中にとある衝動が芽生えた。衝動は腹の底に灯っていた熱と融合し、真白に奇妙な高揚感と獰猛さをもたらした。
授業参観はめちゃくちゃだ。どうせなら、もっとめちゃくちゃにしてやりたい。わたしの家みたいに。そうすれば、少しは公平になる。
そのためにはどうしたらいいか。
答えはさっきの算数の問題より簡単だった。
真白は目に入る範囲全ての机を、力を使って持ち上げた。教室のざわめきがぴたりと収まった。皆、声もなく、口をぽかんと開けて宙に浮かぶ机を見ていた。まるでUFOでも見ているみたいな顔だった。
真白は、机を踊らせるように動かした。
真白の頭の中で描くイメージ通りに、机は踊る。
楽しかった。気分がよかった。
束の間、嫌なこと全部を忘れられた。
しかし、それも長くは続かなかった。
静まり返っていた教室は、すぐに蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。児童も親も、みんな我先にと教室から逃げ出した。子どもの手を取って逃げる親もいたが、自分だけ逃げる親もいた。
――わたしのお父さんとお母さんだったらどうするだろう。わたしの手を取ってくれるかな。
たぶん、無理だ。
唇が自然と歪む。力が抜ける。
自分は何をやっているのだろう。自分は何がしたいのだろう。
机が一斉に落下してけたたましい音を立てる。気づけば教室にはへたりこむ先生と、真白しかいなかった。
楽しい気持ちは、すっかり消え失せていた。
「先生は、逃げないんですか」
室橋には悪いことをしたと今更ながら思う。授業参観を台無しにしてしまった。
おじいちゃん一歩手前の室橋はいつも穏やかで、真白は、京都で見た庭園みたいな印象の彼が嫌いではなかった。
「恥ずかしながら、腰が抜けた」
席を立った真白は室橋に歩み寄ると、手を差し出した。「ありがとう」と室橋が手を握り、立ち上がる。力でそっと補佐したことは、室橋にはばれなかったようだ。こういう力の使い方なら、きっと許されるだろう。誰に許してもらうのかはわからないが。
「
近くに椅子に座り、室橋は言った。
真白は黙って首を横に振った。
室橋はどちらの意味で捉えたのか、やさしく微笑んで、
「そうか。怪我はない?」と訊いた。
「ありません。ありがとうございます」
「それは何より。しかし、教室がぐちゃぐちゃだね。幽霊だかなんだか知らんが、面白くないことでもあったのかな」
まさか真白がやったと気づいているわけではないだろうが、室橋は困ったように笑った。
改めて見れば、教室はひどい有様だった。机や椅子が倒れ、教科書と文房具が散乱している。小さな子どもが癇癪を起こして暴れた後みたいだ。
そう思うと、恥ずかしくなった。自分はもう小学四年生なのに。
「わたし、片付けます」
真白は倒れた机を、自分の手で元に戻した。まずは一つ。全部直すのは大変だが、やらなくては。
「ありがとう、姫咲さん」
立ち上がった室橋も机を並べていく。
室橋と真白が片付けている間、外から遠巻きに見ている児童や先生たちは、誰一人教室に入ってこようとはしなかった。
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