第7話 スプーンを曲げた日③

 苦い思いと共に夏休みの旅行が終わった。

 真白ましろの家には、いくつかの変化があった。

 まず、家中がタバコ臭くなった。

 父が所かまわずタバコを吸うようになったからだ。以前は吸ってもせいぜい一日に二、三本で、それだってベランダで吸っていたのに。

 今では父は家にいる時は、食事中を除いて大抵タバコを口にくわえている。

 いつの間にかリビングのテーブルに置かれていた大きくて重そうな灰皿は、いつも吸い殻でいっぱいだ。真白には、その灰皿が父をダメにする悪い魔法の道具のように見える。


 次に、父と母の口喧嘩が増えた。

 今までだってまったく喧嘩をしなかったわけではないけど、料理が雑だとか、家事を全然手伝ってくれないとか、そういう理由で怒鳴り合ったりするということはなかった。

 それが今ではしょっちゅうだ。父と母はいつもぴりぴりしていて、触れたら弾ける鳳仙花ほうせんかを思わせる。

 鳳仙花という花の名前と性質を真白に教えてくれたのは父だった。散歩が好きだった父はよく真白を一緒に連れて行ってくれたが、それも途絶えた。


 そして、これが一番真白にとって堪えたのだが、父と母が真白によそよそしくなった。

 どうにかしたくて、真白は自分に何ができるか考えた。

 一度、キッチンの高い戸棚にしまってある調理器具を取るために母が踏み台を持ってこようとしたとき、『力』を使って動かしてみたことがある。

 スプーンを曲げるばかりではなく、こういう、母の役に立つ力の使い方もあるのだと証明したかったのだ。そのために、こっそり色々試していた。

 母に喜んでもらいたい一心だった。けれども――。

 真白が手を触れずに動かした、宙に浮かぶ重い圧力鍋を見た母は悲鳴を上げた。

 悲鳴を聞いて駆け付けた父も絶句した。

 そして、両親は揃って真白をあの目で見た。まるで、得体の知れない怪物を見るような目だ。圧力鍋がフローリングの床に落ちてけたたましい音を立てた。

 料理が雑だと言われた母が、凝った料理を作るために出そうとした圧力鍋は、しかし結局使われることはなくそのまま捨てられた。底が少しへこんだという理由で。

 以来、真白は両親の前で力を使うことをぴたりと止めた。


 崩壊は、真白がスプーンを曲げた日に始まっていた。

 真白が意識せず自分の家族に入れてしまった目に見えないヒビは徐々に広がり、真白が四年生になるころにはもう、修復不可能な亀裂になっていた。亀裂はすなわち両親の不和だった。

 両親は離婚の話で揉め、真白をどちらが引き取るかで揉め、誰がこの家を出ていくかで揉めた。

 父も母も出ていきたがらず、また、真白を引き取ることを拒んだ。不仲になっても、そこだけは息がぴったりだった。

 夜、喉の渇きで起きてキッチンに行こうとした時に、父が「あんなバケモノを産んだおまえが悪い」と言っているのが聞こえた。母は何も言い返せないようだった。

 真白は水も飲まずそっと自分の部屋に戻り、再び毛布をかぶった。

 父が口にしたバケモノが自分を指しているとは、思いたくなかった。


 小学校での真白は、ぼんやりすることが増えた。

 相変わらず男子は名前と肌の色を理由に、真白をからかった。以前はできていた我慢が、今の真白にはできなくなっていた。

 授業中、先生に呼ばれて教壇に向かう男子の足を、力を使って払った。何もないところで転んだ男子はクラスの笑いものになった。

 テスト中、隣の男子のシャープペンシルを、力を使ってへし折った。先生が予備の鉛筆を貸してくれたが、お気に入りのアニメのシャープペンシルが壊れてしまった男子は泣きそうな顔をしていた。

 給食中、斜め前の席の男子が牛乳のパックを口に近づけた瞬間、力を使って破裂させた。その男子は牛乳まみれになった。

 いずれも、真白をよくからかう男子だった。

 いい気味だとは思えなかった。砂糖もミルクも入れないコーヒーを飲んだあとみたいな、苦みだけが残った。

 自分は何をしているのだろう。自分は何がしたいのだろう。

 誰にも訊けない、行き場のない疑問がぐるぐると胸の内で渦を巻く。

 家のパソコンで自分の力について調べてみたことがある。調べるのは難しくなかった。父か母が調べたと思しき履歴が残っていたからだ。

 念力、念動力、サイコキネシス。呼び方はいろいろあったが、要は手を触れずにものに干渉できる力だ。そんなのはとっくに知っている。

 真白が知りたいのは、力との正しい付き合い方だった。けれども、真白の調べ方が悪いのか、どれだけ調べても、力との付き合い方なんてどこにも書いてなかった。出てくるのは本当か嘘かわからない、うさんくさい動画ばかりだった。

 

 ――誰か教えて。わたしはどうすればいいの。わたしを助けて。

 

 そんな真白の心の叫びは、誰にも届かない。


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