第3話

 気づけば魔の運動会から1週間が経っていた。教室では、既に運動会の昂りは薄れており、二人が白組敗北の原因だと指をさされることもなくなった。


 二人はいつもクラスのみんなと時間をずらして帰宅している。ランドセルに教科書を詰める動作を、いかに自然に遅くできるかを競い、教室の人数が減ってきたら、さりげなく同じタイミングで玄関に向かう。


 今日もランドセルに教科書を詰め終わったタイミングで二人は顔を見合わせ、ゆっくりと教室を出た。階段をてってと降りていくと、玄関に麻友と取り巻きの女子が群れて座っていた。麻友は、見せびらかすようにスマートフォンの画面を慣れた手つきで操作している。伊生がチッと舌打ちをすると、弘志が「あっちから帰ろう」と体育館の方へ歩き出した。


 校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下は外に面しているので、そこからぐるりと回って正門の通りに出ることができる。

「あいつがスマホ持ってきてること、先生にチクるか」

「やだよ、僕たちってバレたらそれこそいじめられちゃうかもよ」

「カーストの順位、もっと下がっちまうな」


 ひとつの石を順番に蹴りながら歩いていると、急に体育館の裏側からぬっと人影が現れた。伊生はひぃとのけ反り、その拍子にバランスを崩して後ろに転んでしまった。しかし逆光に照らされる人影の輪郭を捉えると、二人はすぐに安堵した。


「なんだ、シゲ爺じゃねえか」

 シゲ爺と呼ばれた男は、まさに爺と呼ばれるにふさわしい白髪の混じった髭をざりざりと撫でている。垂れた瞼の隙間から見える真っ黒な瞳で二人をぐぐっと見つめたと思うと、にかっと笑って入れ歯を見せた。


「なんだとはなんだよ。お前ら、なんで正門じゃなくてわざわざ裏っ側から帰ろうとしてるんだ」

「別に関係ないだろ」

「出た、イマドキの若者の、別にってやつ」

「別にそういうわけじゃねえよ」

「別に、そういうわけじゃないのか」


 安田茂雄やすだしげおはこの小学校の用務員で、子どもとはあまり関わりはないが、人のいない場所を好む二人にとっては顔なじみの先生だった。安田という名前の先生が他にいることと、いかにも「爺」な容姿なことから、いつからか子どもたちから「シゲ爺」と呼ばれている。

 シゲ爺は、にやにやしながら別に、別に、とおちょぼ口で繰り返し、伊生をからかっていたが、

「ところで、カーストってなんの事だ」と、再び瞼の下の小さな瞳を黒く光らせ、二人を見た。


「シゲ爺、僕たちの話聞こえてたの」

「カーストってのがちょうど聞こえたんだよ」

「シゲ爺、カーストって知ってるかよ」

 伊生が、鼻息を荒くしてシゲ爺に近づく。


「カースト制度っていうのは、バラモン教の身分制度だろう。王様から奴隷までランク付けをする制度だな」

「僕がテレビで見たのは、学校のカーストってやつでした。人気者は上で、そうじゃないやつは下なんだって」

「スクールカーストってやつだろう」

シゲ爺は、くだらねえな、と唾を吐いた。片付けるのは自分だろうに、と伊生は思ったが、言わない。


「カーストなんて、いったい何で決まるって言うんだよ。くだらねえよ」

「俺たちはカーストの下なんだよ。足が速いやつが上なんだ」

「小学生ってのは、世界が狭いな」

 シゲ爺は、わざとらしくため息をついてみせた。


「シゲ爺は掃除や草取りしかしていないから、教室のことはわかんないんだよ」

「そうかもな。ただ、教室にカーストが成り立っているとすると、それがアホくさいのはわかる」

「先生がアホとか言ってもいいんですか」

「いいんだよ、俺はただの雑用担当だから、先生じゃねえ」

 あ、人前では先生って呼べよ、とシゲ爺は二人を順番に指差す。そして、ちなみに、と言葉を続けた。


「大人になったら、足の速さで良し悪しが決まるわけじゃねえぞ」

「じゃあ何で決まるの」

「それぞれだ」

「どういうことだよ。全然わかんねえ」

「いいか、小学校の次は中学、高校、大学や専門学校、そして晴れて社会人だ。大きくなっていくと、運動会のかけっこ競争なんて縁もゆかりもなくなっていく。その代わりに、かけっこ以外の場面で活躍できるチャンスが増える。今はなんだって仕事にできる時代だからな。人の話をうんうんそうだねって適当に聞いていてもそれが仕事になることもある。ということは、お前たちの足が遅いことなんて、言っちゃ悪いが、どうでもいいんだよ。結局、何ができるかなんて人それぞれなんだから、カーストなんて意味ねえんだ。ただ、お前たちがいる、それだけだ」


 伊生と弘志は、理解出来たのかどうかすら理解出来ず、顔を見合せて口をへの字に曲げた。

「よくわかんないけど、僕たちは足が遅くても大丈夫ってこと?」

「大丈夫かどうかはお前たち次第だ。俺様の見立てでは、お前らは大丈夫だと思うがな」

 シゲ爺は、がははと笑って二人の頭をわさわさと撫でた。つられて二人も笑った。伊生は、大丈夫かどうかは分からないけれど、俺には何ができるんだろうか、と頭を巡らせてみた。が、これといって思いつくものは特に無い。

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