第2話

「いちについて、ようい…」


 ぱあんっ、とピストルが鳴る。五人の走者が一斉にスタートした。はずだったが、一人だけ明らかにスタートの合図から遅れて走り出した。

 保護者たちや別学年の子どもたちが、がんばれえ、と声援を送る。伊生には、地面を叩くような、ばたばた、という自分の足音が聞こえるだけだ。たった五十メートルの距離にも関わらず、ゴールにはなかなか辿り着かない。既に他の4人はゴールしてしまい、最後は伊生の独走パレードとなった。心の中で、早く終われ、と連呼しながら、伊生はのろのろとゴールした。


 一等の旗を持つ謙二けんじが、伊生の顔を覗き込んで「ナイスファイト」とニヤリと笑って声をかけたが、今日だけは笑ってごまかせる自信がなかったので、伊生は聞こえないふりをしてとぼとぼ弘志の隣に座った。


「なんでこんなに大勢の前で、できねえことを見せてやらなきゃいけねえんだよ」

「テストの結果だって貼り出さないのにね」

「テストだって貼り出されたらまずいだろ」


 砂を指でいじくりながら話していると、黒い影がにゅっと二人の視界に入り込んできた。

「ちょっと、あんたたち二人のせいで、白組の得点、全然入らないじゃない」

「そんなこと言ったって、僕たち麻友まゆちゃんみたいに速くないから、仕方ないよ」

 仁王立ちで見下ろしてくる麻友は、怒っているというより得意気な様子に見える。彼女のふわふわと揺れ動く髪、ゆで卵のようなつるつるの肌、透き通った色素の薄いブラウンの瞳を、一つずつ順番に見つめた。この姿で優しい性格であれば、と思わずため息をつくと、麻友がキッと睨んできたので、すぐに視線を逸らして再び砂をいじくり始めた。


「仕方ないとか言い訳じゃない。ちゃんと挽回してよね」

 バンカイ、と伊生は口に出してみるが、意味は分からない。麻友ちゃん行こう、と数人の女子が集まってきて、白組の陣地へ去っていった。

「バンカイって、六年生で習うのかな」

「知らねえよ。どうせあいつも意味なんてわかってないんだろ」

「僕たちも戻ろう」


 二人でとぼとぼと白組の陣地に戻ると、弘志の椅子に謙二が座っていた。椅子に置いていたハンカチが、謙二の尻に敷かれている。重り代わりに置いていた水筒は、横になって地面に落ちていた。

 弘志が黙って尻の下のハンカチを見つめていると、謙二は何もなかったかのように立ち上がり、自分の椅子に戻っていった。


 皺がついたハンカチと倒れた水筒を掴み、運動会は好きじゃない、と弘志は呟いた。

「いつもこんな感じだろ」

「確かに、教室でも変わらないよね」

「別にいじめられてるわけじゃねえからいいけど」

「僕たち、カースト、っていうやつの下の方にいるんだよ、多分」

「カース?なんだよそれ」

「カースト。良い人が上で、悪い人が下、みたいな。テレビでやってた」

「俺たち別に悪いことなんてしてねえだろ」

「なんだろう、人気のある人が上で、ない人が下、かなあ」

「合ってるのかわかんねえけど、なんとなくわかる」

「カーストが上の人は、足が速い」

「わかる」

「麻友ちゃんも、謙二くんも、足が速いから上なのかな」

「足が速いことが大事なんだな、世の中は」

「足が速い人が、人生うまくいくのかな」

「足が遅い俺たちは、もうだめだ」

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