1 ホイル包み焼きハンバーグ⑲

 のどが渇いて、カサカサと不快な声が喉を滑っていった。反応するのではなかった、気づかなかったふりをすればよかったのに。後から気づくが遅い。

 しかし、未桜の様子などお構いなしに、プルリとした健康的なピンク色の唇をほころばせ、呼ばれた方はぱあっと笑み崩れる。パンと合わされた手の白い指先では、ジェルネイルを施された爪が桜色に輝いていた。

「やっぱりぃ! 未桜ちゃんだぁ! さっきそこのビルから出てきた時、そうじゃないかと思ったんだよぉ」

「……」

 よりによって。かなうなら、こいつの葬式の遺影以外では顔も見たくないなと思っていた相手に。こんな時に。

 ボサボサの髪を引っ詰め、彼女にファッションのいろはを教わる前のような、雑なメイクと量販店のよれたスカートスーツ姿で。ただでさえ会いたくなかったものを、まかり間違ってもこんなに惨めな気持ちに浸っている時に遭遇するとは。

 なんてこった。──今日は、本当に厄日らしい。


    *


「久しぶりだもーん! ね、ね、ちょっとだけ話そ、ね」

「いや、忙しいから……」

「さっきそこの生命保険のビルから出てきたでしょ? 見てたよぉ! あそこ制服着て働いてる人ばっかりだと思うけど、未桜ちゃん自前のスーツだもん。もうお仕事終わったんでしょ? ね、ちょっとだけ!」

「……え、と……」

 どうにかしていてしまいたかったのに、ぼうぜんとしているうちにすっかり麗子のペースに巻き込まれ、未桜は気づけば、彼女と共にいつものコーヒーチェーンの一席に落ち着いてしまっていた。

(どうしよう、早く振り切って帰っちゃわないと……)

 半ば気絶しつつ、かろうじて残っていた意識で、定番である本日のコーヒーを注文したのは覚えている。日替わりのコーヒーは、いつも通り、いつもとの味の違いなんてわからず。それだけが少し、冷静さを取り戻させてくれる。

 傍では麗子が、なんちゃらかんちゃらクリームラテだかモカチップなんとかカッフェほにゃららグラニータだかいう特殊召喚じゆもんを用いて呼び出した、特大サイズのプラスチックカップを極太のストローでつつき回している。真っ白なクリームと、上からドロリとかかったチョコレートソースの対比が、嫌に毒々しく感じられる。

「見て見て、新しいネイルしたとこなの。最近お気に入りのサロンがあってね、そこの店長さんがテレビで見たってあたしのこと知っててくれてぇ」

 さっきから麗子が何かずっと話しているが、ほとんど耳に入ってこない。ところどころ、「例の教授から婚約しないかと言われているが、するかまだ迷っている」や「某お茶の間歴史番組のコメンテーターでレギュラー出演が決まりそう」などの聞きたくもない情報だけ把握したが、それも努めて無反応でやり過ごす。

(頼むから早く、どっか行って。この時間、終わって)

 何を言っても無駄なのだ。そして、麗子自身の話も、どこまで本当かわからない。学術誌やテレビなどから、間違っても彼女の情報を取り込んでしまわないよう、それらの媒体を意図的に生活からシャットアウトして過ごしていたから、ここ一年ほどは名前すら聞かずに済んでいたのに。どうして今更こちらに寄ってくる? もう、しゃぶり尽くされてらしになった未桜などに。

 記憶を都合よく自らかいざんしてしまう麗子から、何かを取り戻すのはもう無理だとあきらめている。だから、もう。奪ったことも裏切りも。したくもないが、過去にしてやるから。これ以上、未桜の人生に関わってこないでくれ。

 そうだ。なにがしかのタイミングで、用事でも思い出したと言って席を立てばいい。そら、今だ──

「ねえ! 聞いてる、未桜ちゃん?」

「……!? ご、ごめん、なんて言ったかな……?」

 ──と。急に大きな声で呼びかけられ、未桜は思わず肩をびくつかせた。

「未桜ちゃん、あそこの生命保険会社で働いてるんだよね?」

「え、うん……」

 ……嫌な流れになってしまった。麗子が自分の話をしてくれている分には、聞き流せばしまいだったのに。未桜の話を、よりによって麗子に尋ねられたくはない。目の前にいる彼女からどう逃げようかと画策していた後ろめたさと、不意をつかれた無防備さで、未桜はつい、素直にうなずいてしまった。

 そして麗子は、ある意味で、案の定な反応をするのだ。

「なんでー!?」

「な、なんで、って」

(あんたのせいで、そこしか勤め先が見つからなかったからですが……)

 言っても仕方のない続きを胸の中にしまって口をつぐむ未桜に、麗子は身を乗り出してくる。いつか見たように、アヒルよろしく唇をとがらせて。

「あたしの友達が言ってたよ? あそこの……安心保険パック? とかなんとかいうやつに入ったけど、契約内容に説明足りてなかったり、電話対応とか悪すぎて途中抜けしようか迷ってるって。しかもさ、たぶん事務じゃなくて、ただの販売員とかだよねぇ。未桜ちゃんは、本当にそのお仕事がいいと思ってやってるの?」

「それは……」

「そんなの未桜ちゃんの頑張ってやってきたことに、全然関係ないじゃない!」

「……」

 ──唇が。

 奇妙な形にひしゃげて。そこから体が、溶けるまで熱せられた金属みたいに、ぐにゃぐにゃとじ曲がっていくような感覚に。

 未桜は、せきずいを抜けていく攻撃的な衝動をやり過ごすため、ぐっとひざの上でこぶしを握り締める。どの年齢層にも好ましく映るため、清潔感を保とうと深めに切り揃えているはずの爪が、血が出るほどに手のひらに食い込む。

(どの口が)

 どの口が言っている。誰のせいで、こんなところで働いていると思っているんだ。

(私、……私から。私の、全部、全部……奪っていったくせに。お前が言うのか。それを、言うのか)

 言い返さずに黙っていたのは、口を開くと、とうのように呪いの言葉が飛び出しそうになるからだ。

 言っても無駄だ。そこに使う労力が惜しいだけだ。それがわかっているから。

 身を焼くほどの屈辱を、未桜は歯を食いしばって耐えた。そんな未桜の沈黙をどうとらえたものか、麗子はますます勢いづいて身を乗り出した。

「今の未桜ちゃん、なんだか全然キラキラしてないよ? あたしの知ってる未桜ちゃんじゃないみたい。前の未桜ちゃんに戻ろ。もっとハングリーに、もっと輝いてこうよ! ね?」

 ──ガンッ、と。テーブルにたたきつけるようにコーヒーのカップを置いた未桜に、麗子がビクッと肩を引きらせる。

「未桜ちゃん……?」

 恐る恐る、といった風情の疑問を含んだ呼びかけに、未桜は大きく息を吸う。頭の中でぐつぐつと煮詰まったえんに無理やりにふたをして、強く抑えつける様をイメージしてみた。

 黒く潤んだ目を向けてくる麗子は、「どうしちゃったの未桜ちゃん」と大きく書き出したような表情をしていて。薄く開かれたローズピンクの唇はドラマチックにわななき、マスカラで美しくカールを保ったまつげにはわずかに水滴がついている。

 それは果たして、どこかで見たような面構えだった。はて、どこだったかといえば、空想の中だ。頭でのみ思い描いた未桜自身の葬儀で、ブラックフォーマルに身を包んだ麗子は、こんな顔で自分の遺影を見つめていそうだと、確かに思っていたところだ。

(この子の中では、私はスープを取り終わった出涸らしの骨で、とっくに使い捨てられた死人なのかと思っていたけど)

 そうだった。もう死んだ相手を無邪気に黒のピンヒールで踏み付けにして、自分の悲劇の物語に巻き込むのが、この女だったじゃないか。もういっそおかしくなった。相変わらず、予想の斜め下に来てくれる……。

 限界まで沸き立った感情の塊を、かろうじて残った理性で飲み下し、未桜はかすれ声でこれだけ絞り出した。

「私もう帰るね。それじゃ」

「未桜ちゃん……」

 それ以上ここにとどまっている気にもなれず、慌ただしく席をてて背を向ける。顔も見たくないし、それ以前に、いまの自分がどんなせいぜつな表情をしているのか、そちらの方が恐ろしかった。

 そして麗子は、そのまま何も言わずに立ち去ろうとする未桜に、やはり思った通りの言葉を投げつけてくるのだ。

「未桜ちゃんっ、あたし待ってるからね! 未桜ちゃんがに戻ってきてくれるの、ずっと、ずっと……!」

 ──耳をふさいでおけばよかった。

 明日あしたからは、通勤路にはイヤホンもひつだな、と。足速にその場を後にしながら、未桜は現実逃避に考えた。

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