1 ホイル包み焼きハンバーグ⑱

    *


(どうしよう……)

 朝見た「お知らせ」が気になって、未桜の午前中は、ろくに業務に集中できないまま終わってしまった。

(正社員を続けるための、年間ノルマ数を急に増やすなんて……!)

 この会社では、生命保険に加入してくれる契約者数に一ヶ月ごとに目標ノルマがあり、さらに、一年間ごとに達成しなければならないひつノルマも定められている。

 特に、年間ノルマに未達の場合は、翌年に正社員資格を繰り越せず、契約や派遣よろしく「切られて」しまうのだ。最初に規約を見たときに、こっそり紛れ込まされていたその一文に気づけないまま入社した、未桜のような社員は多い。もちろん気づいたところで断れるわけではないので、どうしようもないのだが。

 しかし、周囲にいる「契約してくれそうな心当たり」を全部しらみつぶしに当たって、未桜はどうにか資格を継続してきた。それは、一年間のノルマがギリギリどうにかできそうな数だったからだ。

(それを、今年からノルマ二倍……? 期限まで、もう一年どころか半年もないのに)

 嫌気がさしたからもうこんな会社は辞める、とぼやく同僚たちも多かった。しかし、彼女たちの大半は、パート感覚の年配女性で、彼女たちは家に帰ればきちんと大黒柱のはんりよがいる。即座に路頭に迷ったり、食うに困る人はいない。気軽にその一言が言えることが、未桜にとってはうらやましかった。

(まだ声かけてない知り合い、いたっけ。いや、それより今のうちに転職先……でももう私、こんな年齢だし。ろくになんの資格も持ってないし、社会人経験も浅い。転職なんかできる……? もしどこにも行けなかったら、実家に……どんな顔して、帰ればいい?)

 大学院を博士課程まで出してもらっておきながら、なんの成果も上げられずにまったく関係のない仕事をしていることが、情けなくて、両親に申し訳なくて。就職してからの未桜は、実家にろくに帰らずにいる。彼らが心配してかけてくる電話も、仕事を言い訳にしたり居留守や仮病を使って、出ないでばかりいた。いい年をした娘が、働き口も失って、今更、どの面下げて助けてくれと転がり込めるものか。

(どうしよう、どうしよう)

 ぐるぐると迷いつつ、せわしなくパソコンの前から立ったり座ったりしながら時間を過ごし。午後からのクライアントとの約束を控え、未桜は頭を抱えた。

 そして、悪いことというのは重なるもので──今日の午後の結果もまた、さんたんたるものだった。というのも、契約あつせんのために定期的に訪問させてもらっている取引先の会社で、同行した販売員がとある部署の課長の不興を買ってしまったらしく、コンサルの途中で訪問チームごと会社を追い出されてしまったのだ。トラブルの詳細は聞いていないが、要因となった年配の女性同僚の表情は鬱々としたもので、おそらく彼女も同じ掲示を見て、とにかくノルマを上げなければという焦りがあったのだろうと未桜はあたりをつける。詳しい話を聞いてどうにかできるものでもなかった。

(──今日は厄日かなあ。それとも)

 悪循環の輪は、やっぱり少しずつ下降しているという証拠だろうか。なんて。

 会社に戻って制服から私服に着替えたはずなのだが、ほとんど記憶がない。ぼんやりしつつ道を歩いていたら、見知らぬ初老男性に肩がぶつかったらしく、すれ違いざまに何か叫ばれた。言葉遣いと口調が汚すぎて何を言っているのかは聞き取れなかったが、あんたんたる気持ちにとどめを刺される。

(もう今日はだめだ。帰って寝よ)

 新しく張り替えた靴底の魔法なんて、とっくに切れてしまった。街路樹をうつろなまなしでいちべつした後、肺の底から空気を根こそぎき出すようなため息をつき、未桜はノロノロと足を進めた。

 その時だった。

「……未桜ちゃん?」

 どこかで聞いたような──高く甘ったるい声がを打ち、未桜は踏み出しかけた一歩を出しあぐねた。一拍おいて、ざわ、と心臓を毛羽だったハタキででられたような不快感が襲ってくる。

(……まさか)

 振り向くな、という脳の命令と裏腹に、反射的に目は後ろを見てしまう。そして、ああやっぱりと後悔した。

 そこに立っていたのは、サラサラの黒髪を肩に流し、ピンクブラウンのマドラスチェック柄ワンピースを身にまとった、同じ年頃の女性だ。記憶の中とほとんど変わらず、ナチュラルメイクの愛らしい顔立ちをしている。それはそうだろう、会わなくなってから、たった二年しか経っていないのだから。

「……れ、……麗子……?」

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