1-8 まどろみの中に見る、悲しく、優しい記憶が俺の生きる支えだった。

 ケビン・ハーマンが訪れる前に軽い食事をとると、軽い眠気を感じた。連日の睡眠不足がたたったのだろう。

 少しだけと思い、客間のソファーに体を横たえると、銀狼のシルバが足元で丸くなった。

 窓から入る風が心地いい。

 睡魔にあらがうのをやめ、瞼を下ろせば一分と経たずに夢の世界へと落ちていくのを感じた。


 次に目を開けると、そこは優しい風が吹く外だった。

 柔らかい木漏れ日の中、小さな俺の手を引いているのは師匠アドルフだ。二人の前にあるのは花に覆われた一つの墓石。


「ラス、今日からお前は私の息子になる。と言っても、お前の母とは一回り以上も年が離れているからな。じじいと呼んでもかまわんぞ」

「……師匠」


 爺と呼ぶにはまだ若い師匠を見上げると、痛そうに歪んでいた顔が驚きにゆるまった。

 師匠はまだ若かった。四十路よそじを超えたくらいだっただろう。それなのに、独りになった俺を引き取って育ててくれた。


 父親を知らずに育った小さな俺は、父さんって呼ぶのが恥ずかしかったんだろうな。

 小さな手でしっかりと師匠の手を掴んでいるのを見れば、孤独の中、彼をしたっていることは一目瞭然いちもくりょうぜん

 離さないでと訴えているのに、師匠も気付いていただろう。あの時、手を握り返してくれたことを、今でも覚えている。

 

「師匠って、呼んでもいい?」

「……魔術師になりたいのか?」

「よく分かんない。けど、母さんがそう呼んでた」

「そうだったな……悪くない」


 にっと口角を上げた師匠は、小さな俺を肩にかつぎあげると「家に帰ろう」と言った。

 その肩の上で墓を振り返ると、花弁が舞い上がり視界をさえぎった。

 堪らずに目をつむる。

 再び瞼を上げた時、俺は陽射しの入り込むリビングにいた。すっかりくつろいで絵本を広げている。

 懐かしく思って、俺は幼い自分の手元を覗き込んだ。

 絵本の内容は、悪だくみをした魔女が大切な仲間と出会って改心して奇跡を起こす、そんな感じだった気がする。

 何度も、何度も読み返した。あの頃はまだ、冒険とか勇者とか、そんな夢物語にも憧れていたのかもしれない。


「師匠、母さんは魔女だったんだよね。いい魔女? 悪い魔女?」

「そうだ。とても優秀でいい魔女だったぞ」

「俺も魔女になれる?」

「男は魔女とは言わないな!」

「魔……男?」

「そうじゃない。魔術師だ」


 嬉しそうに笑う師匠は、持っていた杖で床を叩いた。

 すると、壁に描かれていた木々の模様がざわざわと葉を揺らし始める。


「古い魔法には危険なものも多い。だが、自然の力でも、科学の力でもない、時すらも統べることが出来る奇跡の力……それが魔法だ」


 幼い俺には、何を言っているのか分からなかっただろう。だが、今なら何となく分かる。


「ラス、お前には幸せになる権利がある。その為に学べ。私が必ず、立派な魔術師に育ててやろう」


 師匠の杖が窓を示すと、静かにそれは開き、暖かな風が吹き込んできた。花の香りと陽射しの香り。そして鳥の鳴き声が部屋中に広がる。

 壁の木々から小さな実が落ちて、コトッと音を立てた。

 コト、コトッ。続けて落ちてくる。

 幼い俺と一緒にそれを振り返ると、どこからか入ってきたリスが、床に落ちた木の実を頬袋に押し込めていた。


「お前の力で、世界を変えることだってできる」


 奇跡の力だと繰り返す師匠に向き直ると、まばゆい日差しが広がった。

 白い光が全てを飲み込んでいく。それは温かく、優しく──


 閉ざした目を開ければ、客間の天井が視界に入った。横を見れば、シルバが瞳を伏せて丸くなっている。

 ふっと息を吐き、穏やかな気持ちを胸に抱いて体を起こした。


「世界を変える……そんな大層なことは望んでないよ、師匠」


 突然いなくなった師匠の後ろ姿を思い出し、少しだけしんみりとした気持ちで窓を見た。

 日はまだ傾いていない。ほんのわずかの惰眠だみんだったようだ。

 

 それから一時いっときも経たずに、ケビン・ハーマンが店を訪れた。

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