第2話

 薄明かりの中、少女は想う。

 今までと、これからのこと。

 記憶を離さないよう、ひとつひとつ丁寧になぞり反芻しながら、思い出の中に刻み込む。

 新しい傷は優しく少女を包み込み、暖かな感情を与える。

 「世界が、続くなら」

 少女は呟く。

 不確かだけれど。

 次があるのは、初めてのことだったから。

 とても大切な、初めての、思い出。

 あの人は、今何をしているだろう。

 次、わたしは何をしてあげられるだろう。

 そう考えるだけで嬉しくなる。


 少女は薄い布団に横たわり、目を閉じる。

 夢は、見なかった。



 男は、塔の最上階にいた。

 以前ここに来た時同様、ソファに座って窓の外を眺めながら、煙草をふかす。

 世界はまだある。だから、男は再び来たのだろう。

「ろま! さん!」

 勢いよく扉が開き、少女が小走りで男――ロマの元へ駆け寄る。

「ノックはどうした」

「ろま! さん! こんにちわ!」

 少女は子犬のようにソファの周りをぐるぐる回りながら、いろんな角度からロマの顔を覗き込む。

「また来てくれたひと! はじめて!」

「……そうか」

 少女は回る勢いのままソファに飛び込む。煙が揺らいだ。

「ニル」

「ろまさん!」

「落ち着け」

 少女――ニルは、ロマの一言で体の動きをぴたりと止めた。

 ソファに寝そべった体制からゆっくり上体を起こし、ロマの顔を見つめる。

「今日は、なにを、しますか?」

「なにもしなくていい」

「はい!」

 ニルは嬉しそうに返事をし、ロマの顔を見続ける。

 ロマはそれ意に介さず、ただ街を眺めた。


 相変わらず空は灰色で、瓦礫の増えた街並みは人の気配がない。

 小さくなった世界だが、人はまだ残存している。

 治安が崩壊しているので、力のない人間は隠れて暮らしているのだろう。

 明日の希望さえ見えないこの世界で。


「ろまさん」

「なんだ」

「そと、外のおはなし、きかせて、ください」

「外か……」

 ロマは煙を吐き、その残滓を眺めながら思い出すように語り始めた。

「俺が生まれたのは、ここからずっと遠い別の国だ。

 国と呼んでいいのかわからんが、とにかくそこでは誰もがみな何かについて学んでいた」

「あ、本でよんだことあります。がっこうですね?」

「いや……そんな規模じゃない。『王国』の学園都市よりも大きい、

 数百万の国民全員が研究と証明を生涯の目標とした、『学術国』だ」

「……なる、ほど」

「お前、わかってないだろ」

「えと、みんな、お勉強がすき、なんですよね?」

「それは……どうだろうな。俺は嫌いだったよ」

「わたしもです!」

 ニルはニコニコしながら答えた。ロマは気にせず続ける。

「そこは魔術を専門とする『オクルタ』と、科学を専門とする『スキオー』の派閥があってな。

 俺は『オクルタ』の出身だった。見せてやろうか?」

「わあ、見たいですぅ」

 ロマは咥えていた煙草を指で挟み、前方に掲げる。

「ルスキニア イグニス」

 短い詠唱の後、煙草の火が勢いよく燃え鳥のカタチになる。

 火の鳥は火元を離れ、ゆっくりと飛翔し、淡く消えていった。

「わあ! すごいすごい! はじめて見ましたぁ!」

 ニルが手をたたいて喜ぶ。ロマはその様子を見て小さく微笑んだ。

「今じゃ酒の席でしか使う機会はないけどな」

「……」

「……ニル?」

 ニルが、ロマの顔を見ながら止まる。

 まっすぐな目で、怪訝な顔をしているロマの表情を観察した後、満足そうにゆっくり口角をあげた。

「ロマさん、わらってる。はじめてみました」

「そう、か」

 ロマはニルから顔を逸らした。

 煙草を咥えて、何もない宙に視線を泳がす。

 何か言おうとして、けれど、煙草をもごもご動かすだけだった。

「ロマさん」

「なんだ」

 声だけの返答。

「たのしい、ですか? わたしは、楽しいです」

「……お前が楽しいなら、それでいいんじゃないか」

「ロマさん!」

 ニルがロマに抱きつく。甘えるように顔を擦り付けて、胸いっぱいに息を吸い込んだ。

「たばこ、くさい」

「わるかったな」

 ケラケラとニルは笑った。



 二人の、二度目の夕日が部屋を染める。

 時間はあっという間に過ぎ去った。何気ない会話から、お互いのことを少しずつ理解する。惹かれ合うには足りず、しかし飽きるには程遠い、安寧の時間。

 

 空気が柔らかく二人を包む。

 けれど、ロマは煙草入れを懐にしまった。

「ロマさん、は、わたしに、興味ないですか?」

 沈黙の中、ニルの弱弱しい声が響いた。

「なんだ?」

「ここ、娼館で、わたし、娼婦、なんです」

「そうだな」

「わたしは、たのしいです。とっても。でも、ロマさんのために、わたし、何もしてあげられてない。わたしにできる、こと、これしかない、です」

 ニルは立ち上がり、座るロマの足の間に身体を滑り込ませる。

 太ももに手を置き、上目遣いでロマを見た。

「下は、つかえない、ですけど。手も、口も、小さいけど、胸だって、あります」

 ロマは答えず、代わりにニルの目を見た。

「つかって、ください。わたしを、あなたの役に、立ててください」

「……俺は、そういうつもりで来たんじゃない」

「わたしじゃ、だめ、ですか」

 ニルは困ったように微笑んだ。

 ロマはそっとニルの肩を押し、立ち上がる。

「帰る」

「……そう、ですか」

「ああ。また来る」


 赤く染まったロマの背中を、ニルはただ眺めていた。

 去り際、ロマは振り返らずに呟く。


「俺も、楽しかったよ。またな」

 その呟きは、ニル一人では広すぎる部屋に吸い込まれて、消えた。

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