電波塔と終末の少女
いちりか
第1話
電波塔と終末の少女
男は曇り空の隙間から射す淡い陽光に目を細めた。その表情は空の色より翳っている。
まるで、死に向かうように、おぼつかない足取りで男はゆっくりと歩き出した。
今にも崩れそうな鉄塔の入り口をくぐる。埃を含んだ空気が、男の身体にまとわりついた。
「誰にする?」
入口右手の暗がりから低い声が聞こえた。
簡素な受付があり、妙齢の女が気怠そうに古びた雑誌を広げている。
女がちらりと男を見ると、男は面倒くさそうに答えた。
「最上階の部屋を頼む」
「金はあるのか?」
女が訝し気な視線を男に向ける。
男は無精ひげを生やし、端がボロボロになった外套を纏っていて、いかにも放浪者といった風貌だった。
男は無言で懐をまさぐり、皴になった紙幣を晒した。
「女はいらない。部屋だけ案内してくれ」
「そういう訳にはいかないね。ほら鍵だ。エレベーターは死んでるから、階段使いな」
男はその言葉に舌打ちをし、鍵を受け取る。
背中を丸めながら、男は塔を登り始めた。
この建物は、かつて電波塔として人々の生活の中心になっていた。
テレビやラジオなど、電波の送受信はもちろん、その高さを生かして観光・娯楽施設なども充実している。
どこからでも見上げれば視界に入る、この周囲一帯のシンボルとして愛されていた。
階段を登り切った先、少しひらけた空間に簡素な装飾を施された扉がある。
『ダチュラの間』、と書かれた部屋。男は鍵を差し込み、硬い取手を引いた。
暗闇に、光が入り込む。
元々展望台として使われていた室内は、前面がガラス張りだった。
街が、小さくなった世界が、男の視界に飛び込む。
がらんとした印象を与える広い空間。床はところどころ、コンクリートがむき出しになっている。
部屋の中心にはソファが置いてあり、隅には大きなベッド。それ以外は必要ないだろうという、最低限の設備しかない。
男は窓際まで歩き煙草を取り出す。一本、口に咥えた。
イグニス、と男が小さく呟くと、男の指先に火が灯った。
ジジジという音。紫煙を大きく吸い、吐き出す。
窓から見える光景は、この世界の現状を容赦なく映し出していた。
――地平線まで果てしなく続いていた街並みが、今ではぽっかりと空いた穴によって途絶えている。
山も海も、街も人も。
すべてを飲み込み、消し去った世界規模の災害。
クネウムと呼ばれる人為災害によって、この世界の97%は文字通り虚無になった。
街の果ては、灰色の空と黒い奈落が広がっている。
タバコが尽きる頃。扉をノックする音が響いた。
男は振り返らない。
扉が静かに開く。
少女が、部屋の中に入る。
「あ、あの……」
男は答えない。窓の外に目を向けたまま、再び煙草を取り出し、火を点ける。
「あ、あれ……おへや、間違えた、かな。だちゅら、ダチュラの間……あって、る? あってるなぁ……」
少女はボソボソと独り言を言いながら、所在なさげにふらふらと部屋の中を探る。
やがて意を決したように、男に近寄った。真横まで歩いて、男の顔を下からおそるおそる覗き込む。
「こ、こんにちわ……」
「お前に用はない。ここにいなきゃいけないのなら、そこのベッドで時間まで寝ていろ」
男はぶっきらぼうにそう言った。
「そ、そんな。せっかく来たんですから……えと、遊びましょう? わたし、なんでもしますよ。なんでも、おっしゃって、ください」
たどたどしい言葉を少女が紡ぐ。男は目線を少女に向けた。
小柄で、露出の多いワンピースを着た少女が、怯えと期待を湛えた目で男を見ていた。
「おかね、おかね貰ってます、から……ね?」
「――年はいくつだ」
「と、としは……だいたい、十八です」
「何時からここにいる」
「えっと、小さいころから、お世話になってます。おぼえて、ないくらい」
「そうか」
男は興味をなくしたのか、窓の外に視線を戻した。
少女は困った顔をして、その顔を見つめる。
時間が過ぎ、二本目の煙草が灰になった。
「お客さん、は、どこから来たんですか?」
沈黙に耐え切れず、少女が口を開く。
男は目を細め、遠く、街の果てを見つめた。
「……東だ。ずっと遠い、東の街」
「わあ。わたし、ここから、で、出たことないんですぅ。実は、人に会うのも久しぶりで……外のこと、もっとおはなし、してください」
返事が返ってきたのが嬉しいのだろう、少女があどけない笑みを浮かべた。人懐っこい、子犬のような顔だ。
男は何か言いたげだったが、観念したように首を振り、その場に腰を下ろした。
「わわ、いす、椅子を持ってきますね」
「いい。お前も座れ」
「床、硬くないですか? 冷たくないですか?」
男は無言で立ち上がり、ソファを窓際まで寄せた。
「わあ。ちからもちですね!」
「……」
男がソファに腰を下ろすと、少女は「しつれいします」と言ってその横に座った。
少し経って、男が口を開く。
「お前、ここから出たことないって言ったな」
「はいぃ」
「何故だ」
「出ては、いけないからです。わ、わたしが、最後、だから。わたしになにかあると、世界が終ると、おしえられました。だから、だめ、です」
男の表情が険しくなる。困惑と、猜疑の目。男は少女の顔を見た。
「クネウムか」
「むずかしいことは、わかりません」
「文字は?」
「見ます、か?」
少女が服の裾に手をかける。男は慌ててその手を掴んだ。
「いや……いい」
「そです、か」
男が掴んだ手を放す。少女は愁いを帯びた顔で、男を見た。
男は何も言わない。ただ、険しい顔のまま少女の顔を、目を、見つめた。
「お客さんの、なまえ、おしえてください。お名前」
「……ロマ」
「ろま、ろまさん、ですね。わたしはニル、ニルともうします」
「ニル……そうか……」
男は深くため息を吐いて、煙草に火を点けた。
/
夕暮れ。
灰色だった雲が鮮やかな赤紫色に染まる。
建物の影がぼんやり伸びて、人気のない街に落ちる。
ロマとニルは黙ったまま、ただその景色を眺めていた。
終末世界。いつ消えてしまうともしれない小さな箱庭。その最後の楔となる少女は、小さく呟いた。
「ろまさんは、いなくならないんですね」
感情の読み取れない、淡々とした声。
窓の外から視線を外さないまま、ニルは言葉を紡ぐ。
「今まで出会ったひとたちは、みんなわたしの身体を見ると、いなくなりました。
優しいひと、乱暴なひと、面白いひと、気弱なひと、こわいひと。
……わたしはただ、わたしをみて、ほしかった」
ロマは何も言わない。ニルと同様に、暮れゆく世界を、夜が始まる前を見ていた。
「今日は、ありがとうございました」
ニルはロマの方を向き、丁寧に頭を下げた。
「ろまさんは、いいひとですね」
「……俺は、いい人なんかじゃない」
ニルが首を傾げる。
ロマは、それ以上何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。
「あ、あ、かえるんですか!?」
「ああ……お前のせいで予定が狂った。出直すことにしよう」
ロマはニルに背を向けて扉に向かう。
ニルは目を潤ませ、追いすがろうとソファから飛び降りる。
「そんな、まだわたし、何もしてあげられてません。お代分は、はたらかないと。手でも、口でも、」
ロマは止まらない。ニルはその背中を茫然と見ていた。
「そんな……もっと……」
内側も硬い取手に手をかけた時、ニルは今日一番の声を出した。
「また! あえますか!?」
ロマは一度振り返り、扉の端からニルの姿を見た。
夕焼けに映し出されたシルエットは外側を淡く赤色に染め、その表情は影になって伺い知れない。
「……世界が、まだ続くなら、な」
扉は開けたまま、ロマは階段を静かに下りていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます