流転 第2話

 ステンレス製の表式にはローマ字表記で冬村の名が刻まれている。その隣にあるインターホンを前にして、僕は一度大きく深呼吸をした。口の中は乾燥しているのに、手は汗で滲み始めていた。


 よしっと、心の中でぽつりと呟き、インターホンのボタンを押した。


 チャイムの音が聞こえてから程なくして、「は…い。」と力ない消え入りそうな女性の声が聞こえた。早くなり始めた鼓動を宥めるように、僕は普段より話す速度を遅めて口を開いた。


「あの、海月さんはご在宅でしょうか?」


 型通りのような口調ではあったが、案外すらすらと話すことが出来た。だが、インターホンの向こうからは返答がない。もしかしたら、僕の声が届いていなかったのかもしれないと思い、もう一度声を発しようとした時、「門も玄関も…鍵は掛けておりませんので、どうぞ中へお入り下さ…い。」と再び消え入りそうな声が鼓膜に触れた。


 重厚感のある黒色の扉を開くと、石畳の玄関が広がり、その奥には木目調のフローリングが部屋の奥まで続いていた。


「お邪魔します。」


 僕がそう呟くと、部屋の奥から一人の女性が顔をのぞかせる。鎖骨の辺りまで流れた長い髪の毛は綺麗な茶色に染められており、ベージュのカーディガンを肩から羽織っており雰囲気のある方だなと改めて思った。


「どうぞ、お入り下…さい。」


 気のせいかもしれないが目は赤みを帯び腫れているようにみえた。


 リビングに通された僕は、促されるままに革製のソファに腰を下ろした。


「昨日から海月さんと連絡が取れなくなってて、もしかしたら体調を崩されたのかなと思って心配で訪ねてきてしまいました。ごめんなさい。」

「そう…でしたか。」


 海月のお母さんはそう呟くと、テーブルの上に置かれたハンカチを手に取り目元に当てた。


 何か気に障るようなことでも言ってしまったのだろうかと僕は不安に駆られる。


「あ…あの、海月さんにご挨拶出来ますか?」


 何気ない質問だったはずだ。

 だが、海月のお母さんは僕の投げ掛けた質問には答えることなく、小さく肩を震わせ、ついには嗚咽を漏らし始めた。


 一体何なんだ?

 どうしたっていうんだ?

 昨日から抱えていた胸騒ぎが、ここにきてはち切れんばかりに膨れあがってしまった。


「海月さんはどこですか?もし…かして何かあったんですか?」


 海月のお母さんは顔をあげると、真っ直ぐに僕をみつめる。綺麗な顔をぐしゃぐしゃに歪めて。そして、ぽつりと言った。


「海月は…消えました…。」


 頭が一瞬で真っ白になった。

 消えたってどういうことだ?

 誘拐されたってことなのか?

 だって、自分から海月が姿を消すはずがないじゃないか。昨日はあんなに楽しそうにしてたのに。


「消えた?消えたってどういうことですか?意味が分からないです。ちゃんと教えて下さい!」


 僕は気付けばソファーから立ち上がっていた。見下ろすような形で海月のお母さんにそう訴えかけると、テーブルの上に置かれていた四つ折りの紙を広げる。


「読んで…下さい。」


 僕は言われるがままに、渡された紙に目を落とす。


 そこにはこう書かれていた。


『お母さんとお父さんへ。

まずは謝らないとね、突然こんな形で居なくなってしまってごめんなさい。

 私は二人の子供として生まれたことを、誇りに思ってるし心から感謝しています。


 二人から貰った大切な命で出来ることなら長生きしたかった。でも、それはもう叶わない。九月三日、私は膵臓がんのステージ4だと宣告されます。お父さんさんならこの意味は分かるよね。私はもう、助からない。


 だから、最後は自分のやりたいようにこの命を使わせてもらいます。この命は私のものでもあるからね。


 今まで本当にありがとう。

 お父さん、お母さん、大好きだよ。』 


 読み終えた頃には胸の中から濁流のように感情が込み上げてきて、目元から溢れた一筋の道が頬を伝った。最初はそっと手にしていた紙も、意思とは無関係に力が入り少しばかりシワが寄ってしまっていた。


 心の中で黒い感情が渦を巻く。


 ふざけんな。

 何だよこの手紙。

 これじゃあ、まるで…まるでもう死のうとしているみたいじゃないか。


「海月さんが……海月がどこに行ったか心当たりはありませんか?」


 語尾が自然と強くなってしまう。頭の中は既にぐちゃぐちゃで、荒波のようにうねりをあげる心を鎮めるのに精一杯だった。


 海月のお母さんは小さく首を横に振る。


「あの子とは高校に入学してから親子としての会話をほとんどしていなかったものですから…。以前は明るい子だったのに、春先から突然人が変わったようになってしまって。でも、昨日から夫が車を使って探してくれています。」


 言い終えたあと顔を伏せる海月のお母さんの傍で僕は腰を屈めた。


「あの…警察には連絡しましたか?」

「勿論です。でも、手紙のこともあり事件性はないということで、まともに取り扱ってもらえなくて、今は捜索願だけ出している状態です。」


 僕は手にしていた手紙に再び視線を落とす。一体どんな気持ちで海月はこの手紙を書いたのだろうか。再び読み進めていくと、違和感に気付いた。


「この部分…。九月三日に膵臓がんのステージ4だと宣告されますと書かれていますけど、これは去年のことですか?」


 今日は八月二十七日。手紙に書かれている日付は一週間も先のことだ。仮に書き間違えたのだとしたら、去年宣告されたということなのだろうか。


「私達もその部分に違和感を感じていたのですが、きっと書き間違えたのだろうと思っています。何しろ、親への別れを告げる手紙ですし…。あの子がどんな気持ちでこれを書いたのかと思うと…胸が張り裂けそうで…。」


 再び嗚咽を漏らし始めた海月のお母さんに、僕は優しく声をかける。


「見つけてみせます。僕が、僕たちが必ず海月を見つけます。だから安心して下さい。 」


 これは同時に自分への戒めでもあった。少しでも強がっていないと、もう僕の心は壊れてしまいそうだったから。


 両手で覆うようにして涙を受け止めていた海月のお母さんは、その手を外すと「ありがとうございます…。ありがとうございます…。」と何度も何度も呟いた。


 僕は最後に手紙の写真を取らせて欲しいとお願いすると、海月のお母さんは心よく許してくれた。


 家をあとにしたのはそれから程なくしてのことだった。 

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