もうひとつの夢 第7話

 夏休みの駅のホームは普段とは少し違う景色が広がっている。僕たち学生とは違い、今日も汗を拭いながら懸命に仕事へと向かう人達に混じり、私服姿の少年や少女が多いように感じる。見たところ僕と同じくらいの年だろうか。


 ホームに備え付けられた椅子に腰をおろした僕は、近くの自販機で買った炭酸飲料を喉に流し込む。甘みのある液体が弾けた泡と共に喉元を通り抜ける度に、まるで歓喜の声をあげるかのように、ごくりごくりと喉が鳴った。


 8月も中旬になり、今年一番の暑さがこの街にも訪れた。椅子に腰を掛けているだけでも滲む汗を何度も拭っていると、階段の方から海月が歩いてきた。


 白いショートパンツに黒のTシャツという出で立ちからは、いかにも夏らしさが感じられた。


「おはよう!」


 出来るだけ自然に。いつも通りの僕でいて、海月を元気付けさせてあげよう。

 今日、玄関の扉を開ける前にそう決めていた。


「うん、おはよう!今日も暑いね。」


 ふわりとそよ風のように微笑んだ海月は僕の隣に腰を下ろす。普段とさほど大差ない海月の声色に、僕は少しだけ胸を撫で下ろした。昨日の姿をみていると、もしかしたら今日は元気がないかもしれないと思っていたからだ。


 ゆらりゆらりと電車に揺られ、三つ隣の駅で僕たちは電車を降りた。駅から出ると目の前にはタクシーのロータリーがあり、その隣には年季の入ったうどん屋さんがあった。


「こっちよ」と海月に言われるがままに僕は付いていく。色あせた青のベンチに腰を下ろした海月をみて、僕もその隣を陣取るようにして座る。目の前には、アスファルトから伸びる金属製の支柱があり、先には時刻表が書かれた看板が取り付けられている。どうやらバス停のようだけど、どこに行くのか未だに僕は知らない。


 どこに行くの?と僕が聞くと、海月は「秘密。」と言って、子供のような悪戯な笑みを浮かべる。透き通るような白い肌は、少しずつ傾き始めた陽の光に染められてほんわりと橙色に染まっていた。


 夏の外気は暑いことに変わりはないが、陽が沈みにつれて少しずつ気温が下がっていることを頬に触れる風が教えてくれる。


 程なくして、バスがやってきた。僕たちの手前でゆっくりと速度を落とし綺麗に停留所を前にして止まったバスは、タイヤから空気が抜けるような音を放つと、まるで金属製のカーテンかのように折り目を作りながら扉が開いた。海月がその中に颯爽と乗り込んでいき、僕もそれに続く。半分程席が埋まっていたが、平日の夕方なのに客入りはそこそこだった。


 二十分程走行し、途中の道路標識に岬という文字がみえた。僕の隣では海月は相変わらず好きな作家の詩集を読んでいる。本当は沢山話したかったけど、今は海月がそれを望んでいるだろうと思うと、話しかけるのは気が引けた。


 防波堤が目の前に広がる停留所に止まると、バスは疲れを訴えかけるように大きく息を吐き出した。海月は窓の向こうに視線を送り、途端に立ち上がる。導かれるようにして僕はバスから足を降ろした。


 一体どこに行くのだろうか?

 あれから何度か行き先を聞いても海月は頑なに教えてくれなかった。


 防波堤の向こうでは水平線が広がっている。足元の道は防波堤と同じ白いコンクリートで出来ており、その道が弧を描くように先まで続いている。道なりをしばらく歩き続けると、海月が指を指す。僕はその先に視線を送り、思わず溜息を溢してしまった。


 ガードレールとガードレールの間に林の中へと続く獣道のような道が開けている。海月が指を指す方向は恐らくそこだろう。


 一体どんな所まで行くつもりなんだ?

 そう思うと、少しばかり不安な気持ちに駆られた。


 それから十五分程、黙々と木々が生い茂る林の中を歩き続いていると、ようやく道が開けてきた。目の前にはまさに断崖絶壁という言葉が当てはまるであろう切り立った崖があり、その先には大海が広がっている。さながら映画やドラマで目にするような絶景を望める場所だった。


「ここが来たかった場所なの?」


 僕がそう問いかけると、海月は笑顔で頷く。


「響達も、おばあちゃんの家とか癒やされる場所を教えてくれたから、私も教えてあげたかったの。」


 そうだったのか。

 海月には海月なりの考えがあったのだと思い、僕は途中の道中に不安に駆られ何度か文句を言ってしまいそうになった自分を猛省する。


「そうだった…んだ。連れてきてくれてありがとう!景色も凄く綺麗だし、海の上から火が灯ってるみたいだ!」


 僕の表現が正しいのかどうかは分からない。でも目の前に広がる景色はまさにそれだったのだ。


 眼下に広がる大海の中へ溶けるように沈んでいく夕陽は、燃えたぎるような光を放ち、直線上に伸びた光の道が僕たちの元まで続いている。


「私ね、響達と出会う前までよく一人でここに来てたの。」


 夕陽に照らされた海月の顔はどこか寂しげで、陽の光が心を露わにさせてるかのようだった。


「そっか、確かにここが落ち着くっていうのは分かる気がするよ。」


 僕はそう言ったあと、地面に腰を降ろした。海月もそんな僕の姿をみて続く。肌が触れ合う程の距離に、僕たちは横並びに座った。


 少しの間、静かな時間が流れた。

 夕陽をみつめて、隣にいる海月の鼓動を、体温を感じて、透明な膜を張る。

 まるで、世界から切り離されたかのようで、泣きたくなる程に尊い時間だった。


 もし、このまま時が止まって、海月と二人でずっとこの場所にいられたら。


 僕が叶うはずのない願いを頭に浮かべた時、甘い声が鼓膜に触れる。


「ねぇ響、天国ってどんな色だと思う?」

「天国の色?」

 突然の突拍子もない質問に僕は困惑してしまった。


「そう、色。海や空に青や灰色といった色がついてるみたいに、天国にも色があると思うの。私が思うに…天国はきっとあんな色だと思う。」


 海月はすっと待ち上げた右手を宙に浮かせる。その手の指の先には橙色に染まる空が広がっていた。


「橙色か…。確かにそう言われるとしっくりくるかも。」

「でしょ?きっとあんな色の柔らかい光に包まれて、身体は温かくなくても、何故か心が常に温もりを感じるような幸せな心地なんじゃないかなって思うの。」


 滑らかに淡々と吐き出された言葉は、それを司る声は、柔らかくて鼓膜に触れると、すぅっと溶けていくかのようだった。


「いつか寿命を迎えた時、天国に行けたらいいね。」


 僕は空を見上げて、そう言った。


「必ず行くよ。天国に行くのは、もうひとつの私の夢の続きだから。」


 海月は僕の送る視線の先に目をやると、うっすらと笑みを浮かべる。


「もうひとつの夢?確か…こないだは、長生きしたいって言ってたっけ。あの夢とまた別の夢があるの?」


 僕がそう問いかけた時、生ぬるい風が吹き抜けた。海月は空に向けていた視線を僕へ移すと、真っ直ぐに僕をみつめる。僕も磁力のように惹きつけられるその瞳に目を向けた。瞳の中に映る僕は、小さくて、海月の言う天国にいるかのように橙色の光に包まれていた。


「私ね、海が好きなの。全てを忘れられるから。ちっぽけな私が抱える悩みも、苦悩も、悲しみも、この広大な海の前では、塵のようなものでしょう?それにね…」


 放たれたその声は、風に乗って溶けるように順に消えていく。


「私はくらげになりたいから。それが、もうひとつの私の夢。」


 今も先程と変わることなく海月の瞳には僕が映っている。

 だが、その夢を口にした瞬間、僕には深い悲しみの色がみえた。

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