波の狭間に見据える未来

 「いいか、夏休みは水の事故が例年増える傾向があるからな。くれぐれも海やプールや川では気をつけるように。あと、宿題も毎日欠かさずやるんだぞ!」


 担任の平間先生が黒板に夏休みの注意事項を書き込みながら口にすると、「はーい!」と溌剌とした声が返される。僕を含めてだが、クラスメイト達がいつもより浮ついているのには、理由がある。今日は終業式だ。そして、明日からは待ちに待った夏休み。僕たちにとっては高校生になって初めての夏休みということもあり、喜びもひとしおだ。


 初めて海月を家まで送った日から、五日が経っていた。僕は、あの日をきっかけに海月を毎日家まで送るようになった。いや、正確に言えばその手前まで。三日前、いつものように海月を家まで送っていると、家の前に海月の両親が立っていた。どうやら海月の帰りが遅いことを怪しんだお母さんが、お父さんに事情を説明したそうだった。家から漏れ出た明かりに包まれながら、十分程お叱りを受けた。海月と友達になるのは構わないが、今みたく毎日遊ぶような深い関係にはならないで欲しい。もし、それが無理なようなら今すぐ海月とは友達をやめて欲しい。ましてや彼氏などあり得ない。SNSには海月を載せないこと。万が一発覚した場合は、即座に友達を辞めて貰うなど、聞いているだけで頭が痛くなるものばかりだった。


 だが、僕はその全てを承諾した。まるで籠の中の鳥のように海月を扱い、自分達の元へと抑え込もうとする方針は確かに行き過ぎているような気もしたが、大切な一人娘だとそんなものなのかなと納得出来る部分はあった。それに、深い関係になるなとは言われたが、それがバレなければ何も問題ないじゃないかと考えたのだ。僕がお父さんから海月と友達でいる為の条件を聞かされている間、「そんなこと響に言わないでっ」と声をあげていた海月はお母さんに身体を抑えられていて、翌日に何度も海月に謝られたが僕は大丈夫だよと笑みを向けた。ただ、一応承諾した身でもある為に翌日も家まで送るのはさすがに気が引けたから、家の手前にある路地までということになった。それに、頭が真っ白になったせいできっかけは忘れてしまったが、その日から手を繋いで帰るようにもなった。


 拓馬や静香と過ごす四人の時間も勿論好きだが、二人で過ごす時間は特別なものに思えた。少しだけ、僕と海月の距離が近くなるその時間は、別に特段おかしな会話をしている訳でもないのに、一言、二言と言葉を交わせば自然と笑みが溢れる。それが、一日の内で何よりも幸せな時間だ。


 いつものように夜道を歩いている時、夏休みの間に二人でどこかに行こうという約束もした。静寂が落ちた闇の中で、「あっそうだ!」と何かを思い出したかのように目を大きく見開き、海月の明るい声が放たれた。何?と僕が問いかけると、夜空を照らすような眩い笑顔が僕の前で咲いた。カバンから携帯を取り出したあと、「ここに一緒に行ってみたい!」と海月は楽しげに笑う。画面に映し出されていたのは県内でも有名な水族館だった。僕は「いいよ、行こう」と口にしながら、あまりにも途端に輝きだした毎日が、過ぎ去っていく毎日が、惜しくてたまらないという気持ちに駆られた。


 こんな気持ちになったのは、いつ以来だろう。


 この数週間の海月との思い出に浸っていると、ガラリと扉の締まる乾いた音がして、椅子の動く音が雪崩のように続いた。どうやらホームルームは終わってしまったようだ。


 皆と同じように教材を鞄にしまっている時、隣から視線を感じた。僕はその視線の先に目をやり、「なんだよ」と言った。


 静香は、何やらにやついた顔で僕をみている。


「今日の響ずっと嬉しそうな顔してるね。夏休みそんなに楽しみ?あっもしかして海月と何か進展でもあった?」

「バ……バカ。そんなんじゃねぇよ。早く行こうぜ」


 思わず動揺してしまい手から滑り落ちた教材を急いで鞄に仕舞い込み席を立った。教室の入口では拓馬が携帯に指を滑らせながら既に僕達を待っていた。


「お待たせ」

「おう。バイト明日の十時からだって。初出勤、緊張するわー」

「拓馬なら大丈夫だって。三人で必ず行くから安くしてくれよな」


 僕がそう言うと、拓馬は白い歯をみせてにっと笑った。


 教室の外にある通路で待っていると、五分程で海月が出てきた。いつものように四人並んで昇降口まで降りていくと、靴箱の前にいた女の子四人組が何やら僕たちの方をちらちらとみている。


「他のクラスのやつとばっか仲良くしてさ。あの子まじキモいよね」

「うちらのクラスに友達いないから、しょうがないんじゃない?」


 周りが賑わっているせいか、はっきりとは聞こえなかったがそう聞こえた気がした。今も変わらず海月はクラスでは一番の嫌われ者らしく、時折あんな風に陰口を言われるそうだ。


 海月は大丈夫かなと思って隣をみると、あっけらかんとした顔で僕をみて首を傾げてる。聞こえてなかったのかな?それとも気にしてないのか、まあどちらにしても海月には僕たちがいる。安心して大丈夫だよという意味を込めて、僕は右手で海月の手をそっと包んだ。すると、海月は僕の顔に一瞬だけ視線を向けて、するりと滑るように顔を伏せた。


 陰口を叩いていた四人の前を通り過ぎようとしていた時、拓馬がずんと身体を前に出す。


「なぁ、お前らさ陰でこそこそ言うんじゃくて思ってることがあるなら面と向かって言えよ。その陰湿な感じがまじで気持ち悪りぃんだよ。言いたいことがあんなら全部俺に言えよ。言えないなら、別に男に頼ってもいい。何にしろ直接言ってこいよ。その男も、お前らも、二度と元の顔に戻らないくらいに殴りつけてやるよ」


 女の子達はぎょっとした顔で拓馬を見上げてる。


「はいはい、女の子を殴ろうとしない。あんなの気にしなかったらいいだけでしょ」


 詰め寄っていく拓馬の背中を静香が両手で押し、半ば強制的に出口まで連れて行った。海月はその姿をみて、くすくすと笑っていた。 


 その時、僕は思った。 

 よく中学や高校の友達とは大人になれば疎遠になると聞くが、僕たちなら大丈夫だ。きっと大人になっても切れることのない固い絆があるんだと。


 何故か、そう確信を持てた。

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