出会いの日。赤く、流れて。

「暑い……暑すぎる。なんでこんなに暑いんだ。」


 夏の乾いた空気を身に纏い、僕はひとりぽつりと呟いた。今は7月の中旬。気温はじりじりと鰻登りに上がり続けており、駅のホームには屋根が備えられているせいか熱気が籠もっている。まるで天然のサウナに入っているかのような心地だった。それに、鼓膜を震わせる蝉時雨が余計にその心地を助長させる。


 周りを見渡せば、僕と同じように電車の待ちぼうけに合う人達がうちわを仰いだり服の袖で汗を拭ったりしている。平日は毎日この駅を利用する為、見知った顔が何人もいた。僕と年も近そうな学生、サラリーマンや化粧を直す女の人、年配の人達。心做しか皆が浮かない顔をしているようにみえる。きっと、僕と同じで抜け出すことの出来ないループのような生活を送っているのだろう。毎日、同じ時間に電車に乗り、決まった時間に帰宅する。眠りに落ちて目を覚ますと、また昨日と同じような一日が始まる。まるで工場のレーンのようだ。昨日と同じような一日を、今日も生きる僕に生きている意味なんてあるのだろうか。


 いつからか僕は、この考えが頭の中から抜けなくなってしまった。


 額から頬へと滴った汗が足元へと落ちていく。地に落ちて弾け散ったそれは、形を無くし、ただ虚しく地面を湿らせた。見ながら、夏の外気に呼応するかのように温もりの増した小さな溜息を溢した時、電車のアナウンスが流れた。


 やっとか、遅いよ。心の中でぽつりと悪態をついてみたものの、車内の冷たい冷気にあたれるのかと思うと、ほんの少しばかり心が踊り顔を上げた。


 その時だった。


 肌を撫でるような控えめな風が僕の真横を通り過ぎた。その風は、夏の淡く甘い空気と共に、クチナシに似通う甘美な香りを僕の鼻腔へと運んだ。


 香りの源を辿ろうと視線を向けるより先に、視界の端を白い影が横切った。制服に身を包んだ女子生徒だった。僕は、何気なく目で追いかけていると、彼女はホームの中央の位置を陣取っていた僕を追い越した後も線路の方へと足を止めることなく進んでいく。


 軽快な音楽と共に駅のアナウンスが再び流れ、「間もなく電車が参ります。黄色の点字ブロックの後ろまでお下がり下さい。」という機械的な音声がホームに響き渡った。


 最初は、そんなに席を確保したいのだろうかと、呑気なことを考えた。 

 だが、その考えは数秒で変わる。


 轟音と共に電車はホームに入ろうかとしているのに、彼女は歩みを遅めるどころか次第に早めていることが分かったからだ。


「駄目だっ!!」


 僕は肩からさげていた鞄を勢いよく地面に投げ捨てたのと同時に全身全霊の力を込めて地面を蹴り、彼女の元へと走った。視線はただ彼女に向けて。息をすることすら忘れて。


 地面を蹴る音が鼓膜に触れる。続けざまに、年配の人達の笑い声が、蝉の鳴き声が聴こえた。それら全ての音が次第に遠くなっていくのは、電車が近づいてきているからだろう。 


 彼女は黄色の点字ブロックを既に越え、あと数歩で線路に落ちようとしている。


 そう認識した数秒後には、重力が彼女の身体にのしかかり斜めに傾いた身体が、線路へと吸い込まれようとしていた。僕は骨と骨を繋ぎ留めている関節が悲鳴をあげるのではないかという程に手を伸ばし、彼女の細い腕を掴んだ。自分の全体重をのせて力を込めたせいか、重力に逆らった反動で正面から彼女と向き合う形になった。


 その瞬間、まるで僕達だけが世界から切り離されたかのような感覚を覚えた。透明な膜が僕と彼女を包みこみ、世界と僕たちを隔てているかのような。寸前までみえていたはずの、対岸のホームや周りにいた人達の姿は、もう僕の目に映ってはいなかった。ただ、そこには彼女がいるだけで、彼女しかいない世界が目の前にあった。


 僕の前髪から弾かれた汗が宙を舞い、彼女の髪の毛は意思を持つ生き物かのように空に向かって揺れ動いている。彼女の目は僕を真っ直ぐに捉えていた。僕も同様に、一切の曇りのないガラス玉のような瞳をみつめていた。突如その目が大きく見開かれ、淵から一筋の涙が頬を伝った。


 時間にして恐らく数秒くらいの出来事だったはずだ。でも、その刹那のような時間がとてつもなく長いものに感じた。


 意識が現実へと舞い戻ったのは鼓膜を突き破ってくるような電車の警笛が聞こえた時だった。右手で掴んでいた彼女の身体を勢いよくホームの方へと引き寄せる。


 ほとんどの力と意識をそれに注いだせいで体勢を崩してしまい、彼女を引き上げたと同時にホームに尻もちをついた。すぐに彼女の無事を確かめようと身体を向けると、彼女は仰向けになるような形でホームで倒れ、小さく肩を震わせていた。


 本来であれば彼女の身を案じるような言葉をかけてあげるべきだったが、僕の口から咄嗟に漏れ出た言葉は怒りの感情をのせたものだった。


「何考えてるんだよ!死ぬつもりだったのか?何があったか知らないけど自殺なんて考えたら駄目だって!」


 彼女は顔をあげると、真っ直ぐに僕をみつめる。透き通るような白い肌をほんわりと赤く染めて、悲しげな、それでいて幸せを噛みしめるような笑みを浮かべた。


「……信じられない。私に、まだ……あんな日々が残っていたなんて。」


 彼女の発した言葉を理解しようとはしたが、何を言ってるのか分からなかった。

きっと気が動転しているのだろう。


「何言ってるのか分からないけど……とにかく死んだら駄目だ。僕だって毎日こんな世界で生きてる意味なんかあるのかって思うよ。時々退屈な毎日に死にたくなる時もあるけど、頑張って生きてる!だから君も、自殺なんてしようとしたら駄目だ!」 


 彼女は小さく頷き、目元を拭った。持ち上げられた左手からは、彼女の白い肌を縫うように真っ直ぐに赤い血が垂れていく。 


 それをみて途端に申し訳ない気持ちで一杯になり、「君、怪我してるよ。ごめん……僕がちゃんと受け止めてあげなかったから。」と目を伏せて言った。


 だが、彼女は一度左手に目をやると、「こんなのなんてことないよ」と明るく放つ。


 その姿をみてほっと胸を撫で下ろした僕は、ようやく辺り一面が騒然としていることに気付いた。僕達を取り囲むようにしてホームは人で溢れ、電車の中からは好奇な目が向けられていた。


「私達、有名人みたいだね。」


 そうぽつりと呟いた彼女は、屈託のない笑みを浮かべる。


 この状況でよくそんな冗談を口に出来るなと思ったが、何よりも驚いたのは彼女が笑みを浮かべたことだった。


 ほんの数分前、もし僕が助けなかったから彼女は今ここにいないのに。もしかしたら死んでいたかもしれないのに。本当に分かっているのだろうかと、思わず問いかけてみたくなった。 


「君は自分が死の……」と最後まで言葉を言い終える前に、数人の駅員さん達が僕達の元へと駆け寄ってきた。怪我はないか大丈夫かと矢継ぎ早に質問攻めにされたあと、女の子とは友達なのか?と聞かれ僕は小さく首を横に振った。


 すると、傷の手当てをしようと彼女だけが駅員さん達に支えられるようにして連れて行かれ、僕はホームにひとり取り残された。


 去り際に、彼女はこう言い残した。 


「さっきはありがとう。大橋響おおはしひびきくん。お礼は、また今度。」


 彼女に僕の名前は伝えてない。いや伝える暇なんかなかった。


 何故、僕の名前を知っているのだろう?


 心の中で芽を出した疑問が大きくなるまでに、それ程時間は掛からなかった。


 僕は、狐につままれたような心地で夏の淡い風を浴びた。

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