Chapter.3

 土曜日の朝。

 ちょっとした大荷物を持ち、先輩に送ってもらった住所を頼りにやってきたマンション。

「三◯三。 ここが」

 まさかあんな爆弾発言をした週末に、一人暮らしの先輩の家に行く事になるなんて。しかも、お泊まり。

 も、もしかしなくても、先輩は私と。そ、そういう事だよね……。

「うぅ」

 先輩に告白した日よりも胸の鼓動が激しくて、今にも壊れてしまいそう。けれど、こんなところでウジウジしてる訳にはいかない。だって、言い出したのは私だから。

「だ、い、じょ、う、ぶ」

 また手の平に書いて飲み込むおまじないをして、インターホンを鳴らす。しばらくしてからドアが開き、寝間着姿の先輩が出迎えてくれた。

「おはようございますっ。 先輩しぇんぱいっ」

「うん、おはよう。 みーちゃん」

 先輩。家では、髪下ろしてるんだ。

 こんな事を思ったら怒られるかもしれないけれど。下ろしているといつもと印象が違って、大人の女性みたいに見えて、綺麗。

「早いね」

「え」

 すぐさまスマホで時間を確認すると、まだ八時前だった。

「ごご、ごめんなさいっ。 朝、早く起きてしまって。 ゆっくり、来たつもり、だったんですけど……」

「ほら、入って、入って」

「お、じゃま、します」

 ぎこちない足取りで廊下を抜け、リビングへ入った瞬間。玄関以上に先輩の匂いがした。あのカーディガンと同じ匂いが。

 それにドキッとしていると『ソファーで待っててください』と言われ、ささっと座り込む。

「朝食は食べましたか?」

「は、はい」

「紅茶、コーヒー、どっちがいいですか? あ、ココアもありますよ」

「こ、ココアで、お願いします」

「はーい」



「……おぉ……」

 鼻歌を歌いながらキッチンに立つ先輩。

 その姿は、まるで。

「新妻さんみたい」

「ココアが出来ましたよ〜。 あ・な・た」

「ッ‼︎⁉︎‼︎⁉︎ せせせ、せん、ぱっ、ききき、きぃ、あ、あわ、ちがっっっ」

「髪を結んでくるので少しの間トースターを見ててください。 あなた」

「うぅ……はい」


 言うまでもなく、しばらくの間『あなた』呼びイジりは続き、先輩の前では失言を控えようと心に固く誓った。


「さて、お腹も膨れた事ですし」

 ごくり、と息を飲む。

 まさか今からすぐやるなんて事はない、はず。でも、可能性はゼロじゃないから。

「映画でも見ましょうか」

 レンタル袋を手にニッコリ笑う先輩。

 ……映画。映画か。

 やっぱり、そんなすぐ──っ⁉︎

 待って。映画といえば恋愛物の定番中の定番。若いカップルが恋愛映画を見て、ムードが出来あがって、そっと手を握ったら握り返されて、映画をそっちのけでイチャイチャラブラブしちゃうなんてよくある事で……。

 せ、先輩に限ってそんな事はない! はずだけれど。やっぱり、可能性はゼロじゃないから。



 ────。



「あー、どういう事なんですか……これ……」

 視聴後。隣で一緒に見ていた先輩は大爆笑。それは映画の内容に対してなのか、まるで理解出来なくて頭を悩ませる私を見てなのか。分からない。

「いやぁ、面白かったですね。 次から次へと予想外の、ふふ、展開が、くふっ」

「笑い事じゃないです! ゾンビものかと思いきや、突然ロボットの反乱とか、世界最強の食人トカゲが出てきたり、最後にはそれをみんな宇宙人が連れ去ったり……。 結局、どういう映画だったんですか?」

「さぁ? ボクにも分かりません」

「……これ、先輩のおすすめとかじゃ?」

「いえ、全く。 おかしなタイトルだな、と思って借りただけですよ」

「……えぇ。 よく借りましたね」

「それがレンタルの醍醐味ですから」

 BDレコーダーから取り出したディスクをケースにしまう先輩はとても楽しそうで。映画についても内容はともかくとして俳優の演技やカメラワーク・表現が面白かった等、色々話してくれた。

 よっぽど映画が好きなんだろうなぁ、とは思う。

 でも、

「次はこれを見ましょう」

「それも、おかしなタイトルで選んだんですか?」

 さっきのが若干トラウマになって身構えてしまう。

「いえ。 これは好きな監督の作品なので借りました──」


 先輩の好きな監督の映画。

 それは、孤児の少年がボロボロのギターを拾った事をきっかけに人生を変えていくヒューマンドラマだった。

 彼はギターを通して音楽を知り、音楽によって友人を作り、音楽で自分の運命を切り拓き・コンテスト優勝の夢を叶え、やがて最愛の女性と出会う。たった一本のギターが、音楽がここまで彼を変え、幸せにした。しかし、彼を不幸にするのもまた音楽だった。

 彼は最愛の女性と家庭を持ち、バーを開いて音楽活動を続けていた。それは何もかも順調なはずなのに、彼の中には燻る想いがあった──世界を巡り、一番の音楽家になりたい。しかし、彼には既に子どもがいて、最愛の女性・娘の二人を置いて町を出る事など出来るはずがなかった。

 なのに、彼は一人の音楽家に唆され、町を出て行ってしまった。

 そして、また音楽によって彼は願いを叶えた。しかし、その願いを叶えても彼の幸せはなく、気づいた。本当の幸せを自分は捨ててしまった、と。

 だから、彼はその気持ちと家族の思い出を曲にして、二人に謝り、人生をやり直そうとした。だがしかし、彼は町へ戻る最中に不幸な事故で亡くなってしまう。

 それから数年後。残された二人はラジオで彼の最後の曲を聴いて──。

 そこで映画はエンディングを迎えた。


「大丈夫ですか?」

 涙がポロポロと。止まらない。

 いつもは、こんなに。泣かない。いや、泣いた事。ないのに。

 何で、だろう。

 先輩に、影響されて。隠れた、メッセージや。見えないものが、見たくて。楽しそうに、映画の話。してるのを見たから、かな。今まで以上に、どんな映画か。知りたくて。いつも以上に、目を凝らしたから。なのかな。

 分かんない。どうして、自分の事以上に。

「先輩。 この映画、ハッピーエンド。 ですよね?」

「えぇ。 君がそう感じたのならこの映画はハッピーエンドですよ。 自分を信じてください」

「……その言い方、ズルいです」

 優しく背中をさすってくれる先輩。

 知らなかった。先輩の手が、こんなにも大きかったなんて。

 だから、なおさら。



 ✳︎



「はぁ」

 浴室に大きなため息が響く。湯船はポカポカなのに、私は。

「気、使わせちゃったな」

 予想外の大号泣から寂しがり屋な三歳児をあやすみたいに優しくされて、その後も優しくされて──。あそこで泣いてなかったら微妙な空気にならず、先輩と一緒に夕飯を作ったり、楽しく食事した後にまったりくつろぐ。そんなひと時があったかもしれない。それを全部自分で台無しにしたと思うと。

「……うっ……──」

『湯加減どうですか?』

「──ッ‼︎」

 突然、ガラス戸越しに先輩の声が耳に入る。どうしてそんな事を聞いてくるのかは、分からないけれど。涙を拭ってから丁度いいお湯だと伝える。

 ……そうしたら、

「ん? どうして背を向けているんですか?」

「だ、だって、先輩がっ急にっ、は、入ってくりゅからっ!」

「さっき、ちゃんと『入るよ』って言いましたよ?」

「そうじゃなくてぇっ!」

「まぁまぁ、軽い冗句じゃないですか」

「分かってます、けど……」

 先輩はいつもの調子で話し、シャワーの音が響く。

 薄々、分かってはいたけれど。やっぱり、先輩にとってこれくらい平気で、女の子の裸に動じたりしないんですね──。



「まるで天岩戸あめのいわとですね」

 先輩が湯船に入っても頑なに背を向ける。俯いて、三角座りで身を縮こませる。

 これで見えない。見られない。

「では、みーちゃんの気を引く為に、ここで一つ昔話をしましょうか。 むかーしむかし、あるところに──」


 先輩には、幼馴染がいた。物心ついた時からいつも一緒にいて、ボーっとしている自分の世話を焼いてくれる優しい女の子。もちろん、先輩は彼女を本当の家族のように信頼していた。二人は、まさに絵に描いたような関係で互いが性を意識する頃には当然のように付き合い始めた。

 そこから先は聞きたくない事だらけ。だって、私にしてくれていた事は全部、その子にもしていたから。頭ではもう分かっていても、それを直接先輩の口から聞くと。

 そして、先輩は彼女から誘われて……。


「──その時、ヘタと言われ、程なくして別れました」

「……どうして今、そんな事……」

「君にしてと言われた日からずっと悔いていました。 あの時、余計な事を言わなければ良かった、と」

「…………」

「ボクがあんな事を言っていなければ、君を焦らせる事も、不安にさせる事もなかった。 すみません。 臆病で」

 それはらしくない声だった。

 いつもはどんな事があっても受け流す。しなやかなで折れない。なのに、力強く芯がある。そんな超人的なイメージを抱くのに、今の先輩は私と同じで簡単に傷つき、壊れ易い普通の人なんだって。

「私と先輩が出会って何日経ちました?」

「十日でしょうか」

「違いますよ。 先輩からはそうでも、私からは十日と一年です」

「…………。 これは一本取られましたね」

「先輩。 私の昔話も聞いてください──」


 私は先輩が好き。

 この気持ちに気づくのに時間がかかって、振り向いてもらう為の準備にも時間がかかって、想いを告げるのにも時間がかかって。

 あの言葉の意味が知りたい気持ちはありました。

 でも、分からなくたって、これからの先輩を知ればいいって思ったのに。

 気づいちゃいました。昔、それだけの仲になった人がいたのかなって。

 それは先輩に近づけば近づく程確信に変わって。気持ちを抑えられなくて、言っちゃいました。

 焦りも、不安も少し違うくて。

 私はただ、


「──ズルいなって。 ごめんなさい。 その子にした事全部を私にもしてほしい。 そんな子供じみた気持ちで、拗ねてるだけなんです」

 言い終えると、浴室にはポタ、ポタと水滴の音しかしなかった。そんな静かな時間がしばらく続いて、背後うしろにいるはずの先輩がいなくなってしまったんじゃないかと不安に駆られた時。

「……みーちゃん。 その、ですね。 そういうのは。 反則、と言いますか。 ちょ、ちょっと、失礼しますねっ」

 まるで私のようにぎこちない話し方を、あの先輩が?

 それは私が知らない先輩。見たい、と思った時には身体ごと振り返っていて、

「やっと向いてくれましたね」

 いつものニコニコ顔の先輩が待ち構えていた。あぁ、なんて単純なんだろ……まんまと騙されてしまった……。

「こっち、来てくれませんか?」

 両手を広げて待つ先輩。それは、つまり──。

「じゃあ、目を。 瞑ってください」

 再び背を向ける。それはさっきとは違って、先輩の顔を見ずに近づく為に。

「目、瞑ってますか?」

「瞑ってますよ」

「本当に、瞑ってますか?」

「本当に、瞑ってますよ」

 先程の前科があるのでチラッと後ろを見て、目を瞑っているのを確認してから先輩の胸に背を預けた。

 その直後、

「ッ‼︎」

 先輩の両手でガッチリと腹部をホールドされて、上に乗って……。

「髪を下ろしてると女性みたいだから平気、とか思ってました?」

「そっ、そんな事は……⁉︎」

「ボクだって男なんですよ。 ずっと心臓バクバクです」

 耳元で囁かれる言葉。吐息がかかって、歯茎から新しい歯が生えてくるようなムズムズが口いっぱいに広がっていく。

「こうすれば聞こえるかもしれませんね」

 今までのが序の口だった。そう思ってしまうくらい力強く、抱かれ。

 ドックンッ。

 そんな音、聞こえるはずがないのに。

 ドックン。

 私の鼓動とキャッチボールをしているみたいに、交互に鳴り響く。

 ドックンッ。ドックン。ドックンッ。ドックン。ドックンッ。ドックン。ドックンッ。ドックン。

 顔がすごく、熱い。

「あの時、させてくれなかった返事。 させてもらっていいですか?」

「……ど、どうぞ……」

「ボクも君と、したい。 今すぐにでも」

「……ぁ……ぅぅ……や、やさしく……やさしく、して、くらは、ぃ……」

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