第4話

「先輩がこの時間に登校しているのって、ちょっと意外ですね。もっと余裕を持って登校してそうなイメージでした」

「まぁ……、色々あってね……」

「寝坊ですか?」

「まぁ……、そんなとこ……」

 指輪を付けたら見ず知らずの女性陣に追いかけ回されて逃げてました、なんて言えない羊は歯切れ悪く答える。頭にハテナが浮かんでそうな美月から続けて質問が来そうだったので、

「美月ちゃんは? いつもこの時間なの?」

 何気なく聞いたつもりだったが、聞いた瞬間羊は焦った。これではまるで相手の通学時間を把握したいストーカーのようではないかと。慌てて訂正しようとしたが、別に美月は額面通りに言葉を受け取ったらしくサラッと答える。

「朝弱くて……」

 横を歩く美月が気まずそうに首を掻く。言われてみれば、美月の登校は普段も時間ギリギリだった気がする。以前、羊が登校する前(つまり大分早い時間)から校門前で待機し、美月に告白しようと意気込んでいた男子が、登校時間ギリギリに着た美月に話し掛けようとして、『すみません、ちょっと急いでいるので』と、通り魔的に切り捨てられたことがあり、以降、朝に告白する生徒は皆無になった。

 幸か不幸か、羊は比較的学校からは遠ざからない方向に走っていたみたいだ。羊が普段は使わない通学路だったため気付かなかったがもう徒歩圏内の距離に居るらしく、おかげで登校中だった美月と遭遇し、まさかの学校まで一緒に登校というイチャラブイベントが発生した。草むらでほふく前進、という奇行も目撃されたことにはなるが、まぁ総じて考えればプラスと言っていいだろう。というか、草むらでほふく前進するだけで美月と一緒に登校できるのであれば、大半の男子は喜んでするに違いない。

 こんなところを他の男子生徒に見られたら後で甘酸っぱい目的とは別の荒っぽい目的で校舎裏に呼び出されかねないが、幸いなことに周囲に居る生徒はほとんど女子で、一部男子も居るがチラっとこちらを見たくらいで過激な行動に出てくる気配も無い。

 ようやく落ちついて登校できそうだ、と羊が思ったのも束の間、落ち着いたら落ち着いたらで自分が今美月と一緒に並んで登校しているのだ、ということを意識し始めてソワソワし始める。それこそ普段は学校の敷地外から覗き見しているくらいなのだ。その人物が今真横に居る。

 何か話題でも、と羊は頭をフル回転させるが、生憎、女子と盛り上がれるような話題には心当たりがない。無言で一緒に歩くのって気まずいかな、とも思ったが、美月は大して気にした様子もなく、羊の横を歩き続けている。ポジティブに捉えれば、無音が気にならないくらい安心されている関係、とも取れるが、周りに他の生徒も多い関係で、たまたま集団登校で一緒になった生徒と一緒に歩いている、という風にも取れる。

 一緒に登校しても会話が無くて退屈だった、と思われること自体はいい。いや、厳密に言えば嫌なのでできれば全力で回避したいが、それでも羊が『つまらない人』という評価を受けること自体はいい。嫌なのは、美月に退屈な時間を過ごさせてしまう、ということ。

 何か無いか、と羊が静かに焦っていると、その焦りのせいなのか、朝全力ダッシュをしたせいなのか分からないが、自分が汗を掻いていることに気付いた。汗臭い、は、今すぐにはもうどうしようもないから一旦考えないことにして、とりあえず滴ってきた汗を拭こうと、羊がポケットからハンカチを取り出そうとした時、


 キーン! と。何かの金属が地面に落ちる音がした。


 ん? と、羊は一瞬自分が物を落とした音だとは気付かなかった。普段そのポケットにはハンカチしか入れていないからだ。だが、今日はちょっと特別。先ほど10キロマラソンの元凶ともなった物をポケットに押し込んでいたことをすっかり忘れていた。

 あっ、と羊が落とした物に気付いた時にはもう遅い。隣に居た美月がそれをそっと拾い上げていた。

「落としましたよ」

 指輪を手のひらに乗せて、美月が差し出してくる。普通に『ありがとう』と言って受け取ればそれで済む話なのだが、その指輪がどういう指輪なのか知っている羊はそれを美月に見られたことに対して、どこか後ろめたい気持ちになり、今絶賛冷や汗流し中である。何だろう? 例えるのであれば、18歳になったから初めて18禁のエッチな本を買おうと思ったら、その時の店員さんが好きな人だった、というくらいの気まずさがある(例えとしてサイテー、というクレームは今現在受け付けない。何となくの気まずさが伝わればそれでいいのだ)

 しかし、動揺を気取られてはいけない。見た目は普通の指輪なのだから、付けでもしない限りその指輪がどういう指輪なのかなど分かりようがない。まぁ、美月は指輪を付けなくてもモテているので、下手すると付けても気付かれない可能性はあるが、ここはただ指輪を落としました、その指輪を拾ってくれました、とシンプルに考え、バクバク言っている鼓動を押さえ込んで可能な限り平常心で、

「ああああああああああああありがとう」

「めちゃくちゃ動揺してますけど、どうかしたんですか?」

 バカなっ! 一瞬で動揺がバレるなんて! 流石は美月ちゃん。鋭い洞察力である。何だ? その、百人が百人分かるだろ、という顔は。

「と、とにかくありがとう」

 証拠隠滅、とばかりに羊が指輪をポケットにしまおうとしたところ、

「?」

 美月が不思議そうな顔をする。あら可愛い、なんて羊が軽めの現実逃避をしていると、

「付けないんですか?」

 指輪を付けようともしないでポケットにそのまましまおうとしたのだから、当然の疑問と言えば当然の疑問だろう。

「え、えっと……」

 羊が指輪を付けないでポケットにしまう適当な理由を考えていると、

「ちょっと付けてみてくださいよ」

 美月がおねだりしてくる。あら可愛い、なんて現実逃避をしている場合ではない。

 普段であれば美月にお願いされた時に表示される選択肢なんて『はい』or『Yes』。Yesと言うまで会話がループどころか、断る選択肢すら表示されないわけだが、今回に限っては事情が違う。この指輪を付ける。それは同時に指輪の効力が発揮してしまうことも意味している。周りには登校中の女子たちも居る。むやみやたらに付けていいものではないのである。

 しかし、目の前には羊が指輪を付けるのを待っている美月が居る。

 指輪の秘密を知らなければ、彼女のお願いは指輪を付けてみて、というただそれだけのお願い。そんなお願いが断られるなんて微塵も思っていないだろう。当然、付けてくれるものだと思っている。

 事情を説明するわけにもいかないが、一方で、事情を説明できないと指輪を付けてみて、という、ただそれだけのお願いを渋るのも不自然だ。そもそも、美月のお願いを断る、ということ自体に罪悪感が酷いのだ。どうしたものか、と羊が考えていると、ひょいっと、羊が指で挟んでいた指輪が取られた。

 ん? と思った瞬間ビクゥッ!! と羊は跳ねた。何故か。美月が羊の手を優しく掴んでいたからである。

 えっ? えっ? えっ? と、美月の優しい手の感触を楽しむ余裕など羊には無い。パニックに次ぐパニックでもはやキャパオーバー。現実逃避の思考停止を始め、もはやされるがままに美月の動向を見守る。美月は羊の手を取り、少し悩んだ後、一番サイズが合いそうと判断したのか羊の薬指に指輪をはめてくれる。

 え? 婚約指輪? などとアホなことを言っている場合ではない。お前がいつまで経っても指輪を付けないから痺れを切らして代わりに付けてくれただけのことだ。というか、何指かなどは今はどうでもいいのだ。問題はたった今、件の指輪を再度付けてしまった、ということ。そして、その指輪の効力は。

「うん、似合いますね」

 美月が微笑んで言う。まぁ、100お世辞であろう。似合う・似合わない以前にこの指輪は本当にシンプルなただの指輪である。凝った装飾がされているわけでもないのだから、似合わない、という時はそれはもうサイズが合っていない時であろう。いや、それだけシンプルだと、むしろオシャレな人が付けると違和感なのか? あれ? 遠回しにオシャレじゃないですね、と言われているのか? などと被害妄想で傷付いている場合ではない。指輪付けとるやんけ、ということに今更ながら気付いた羊は、長い思考停止状態からようやく復帰すると、慌てて美月の顔を見る。

 急に動き出して顔を上げてきた羊に驚きはしたようだが、それだけ。美月は意図を図りかねるように曖昧に微笑んでいる。

「な、何ともない?」

「? と、言いますと?」

 表向き顔には出していないが、恐らく『コイツさっきから何なんだ?』と思っているに違いない。少なくとも『よく分からない』というような困った顔はしている。

 急に羊を意識しだすような素振りも無い。急に羊を追いかけ回すような素振りも無い。指輪を付ける前と変わらない、平常心の美月がそこに居た。

 指輪の力が効いていないらしいことに気付いた羊は、昨日フードの人物から指輪を受け取る時に聞いた説明を思い出した。

 指輪の効き目には個人差がある。効かない人には効かない。先ほど指輪を付けた瞬間追いかけられ、指輪を外した瞬間興味を失ったように追いかけられなくなった経験が無ければ、指輪の力そのもの自体を疑ったところだが、指輪の力が本物だというのは既に証明されているようなものだ。

 レアケースではある、とも言っていたが、どうやら美月はそのレアケースに含まれるらしい。

(効かない、のかぁ……)

 羊が自分でも上手く言語化できないような不思議な気持ちを抱いていると、


 前方に居た女性陣が一斉にこちらを振り返った。


 あ、しまった、と慌てて指輪を外そうとしたがもう遅い。

 指輪の力の効き目には個人差がある。それは昨日説明を受けた通りでもあり、ついさっき美月が無反応だった通りでもある。美月は恐らく指輪の力が全く効かないタイプの人間で、朝追いかけ回された女性陣は比較的穏やかに指輪の力に反応するタイプだったのだとこの時知った。何故か? 目の前の女性陣が我先にと一斉に羊の方へ向かって突進してきたからだ。

 サンプルが少なくてどちらの反応が一般的なのかは分からないが、今度のは随分情熱的な反応である。スペインの闘牛士を彷彿とさせる。

 美月ちゃん、危な~い! と庇おうとしたが、流石美月ちゃん。既に颯爽と安全圏に逃げている。モテる女子は危機管理能力もしっかりしているものらしい。

 が、一方のモテない男は危機管理能力の『き』の字もない。突進されている最中によそ見なんてしたものだから、

「はぶわぁっ!?」

 回避もできずに思いっ切り直撃を食らう。一人二人の突進であればまだ可愛いものだが、いくら相手が女性とはいえ、十数人で一斉に突進されたらそれはもう交通事故である。何と今日二度目の草むらへと吹っ飛ばされ、受け身も取れずに女性陣に押し潰される。あん、シャンプーのいい匂いが、何て甘酸っぱいことを言っている余裕など無い。女性の体重とはいえ十数人にのしかかられているので普通に重いし、普通に呼吸困難である。

 息ができなくて死ぬぅ~、と羊は最初ジタバタもがいていたのだが、段々、何かでもこれだけの女性の山に埋もれて死ぬのもありかも、とか半ば諦め始めた時、

「えっ!? 何これっ!?」

「ちょっ!? おっも~いっ!!」

「いったぁ~っ! どうなってんのこれっ!!」

 ザワザワと羊の上に載っていた女子たちが騒ぎ始め、上の方から順に退き始めたらしい。重さが軽減されて呼吸を確保できるようになった羊はゲホゲホと咳き込む。

 一人、また一人と羊の上から退いていき、

「何でこんなことになって……、あっ! すみませんっ!!」

 最後の一人が羊に謝りながら上から退いていく。いえ、私のせいですし、とは言えずに羊が会釈を返す。先ほどの突進がまるで何事も無かったかのように、各々学校へと向かっていく。

 助かったんだが、どうしたんだ、急に。羊が体の埃をポンポン払っていると、

 ん? 何事も無かったかのように?

 ふと、嫌な予感がして羊が指を見ると、はめていたハズの指輪が無くなっている。

 外そうとしていた時に突進されたものだから、その弾みでどこかへ吹っ飛んだのだろう。

「大丈夫ですか?」

 ほとぼりが冷めた辺りで美月がそっと近付いてくる。これが相手が狼であれば、薄情者め! 見てないで助けろバーカバーカ、と言うところだが、相手が美月だと、僕の心配をしてくれるなんて何と優しい! 天使はここに居たか、と感じるのだから不思議なものである。まぁ、狼の場合は面白がって放置している可能性があるが、普通目の前で複数の女性に一斉に押し倒されたら呆気に取られて身動きできなくても仕方あるまい。

 美月は羊の傍に立ち、彼が立ち上がるのを待ってくれている。

 次いつあるかも、いや、これがきっと恐らく最後であろう美月と一緒に登下校、のイベントを終わらせてしまうのは勿体無いは勿体無いが、流石に無視もできない。

 落としたのがただの指輪なら諦めてもいい。だが、あれは不思議な力を持った指輪だ。間違って誰かが拾いでもしたら大変なことになる。

「ああ、先に行ってて。ちょっと今ので落とし物をしたみたいで」

「手伝いましょうか?」

 手伝ってほしいな~、というのが本音ではある。それは別に早く見つかるから、とかの作業効率の話ではなく、もうちょっと一緒に居て、もうちょっと一緒にお喋りしたい、というのが本音だからだ。

 だが、今の時間が登校時間ギリギリなのを羊は知っている。もちろん、普段この時間帯に登校しているであろう美月も分かっているだろう。手伝っていたら遅刻する、ということくらい。その上で手伝いを申し出てくれている優しさには涙が止まらないが、流石に付き合わせて遅刻させるのは申し訳ない、と気が引けた羊は、

「ううん、大丈夫。ありがとう」

 美月を先に行かせることにした。



 おかしい、探せど探せど指輪が全く見当たらない。女子の一斉突進で派手に吹っ飛ばされたからついでに指輪も派手に吹っ飛んだのだろうか? もはや見つからないなら見つからないでいいのではないか、と思わないでもないが、一度探し始めた手前、見つけないで帰ると探していた時間が丸々無駄になりそうで腹立たしい。

 無いなぁ~、と羊が必死に草むらをかき分けて指輪の捜索をしていると、誰かに思いっ切り背中を踏まれた。

「いったぁいっ!?」

「あ、何か踏んだ?」

「何か踏んだ? じゃないっ! 踏むなっ! 人をっ!!」

「いや、そりゃ悪かったけど、そんなところで遊んでるお前もお前じゃね?」

 人間、前を見て歩いているわけなので、地面にうつ伏せになっていたら踏まれても文句は言えないと、狼は思うが、踏んだこと自体は悪いと思わないでもないので、羊の背中に付けた自分の足跡を払って落としてやる。

「つーかお前何してんだ? もう始業時間過ぎてるぞ?」

「えっ? うそっ? もうそんな時間っ?」

「お前が遅刻とは珍しいな」

「君はいつも通り遅刻してるな」

 時間通り来ているのを見たことがない。と、言ってから羊は違和感に気付いた。

「学校あっちだけど?」

 そう。狼が走ってきた方角は学校から。学校に向かって走っているならともかく、何故学校から遠ざかるように走っているのだろうか。

「お前が原因かと思ってたんだが、お前がここに居るってことは違うのか。だとするとそれはそれで面倒だな……」

「ん?」

 話の見えない羊は聞き返す。狼は少し悩んだ後、

「付いてこい」

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