魂の価値(Aパート)
湿気とカビの臭いが充満した薄暗い地下室に、三人の青年がいた。
ひとりは椅子に座り、ひとりは腕を組んで立ち、最後のひとりは床に四つん這いになっている。
「おい、ノロマ。まだ終わらないのか!?」
一番上の兄が、椅子にふんぞり返ったままの姿勢で四つん這いの男に言った。
「ごめんなさい。もうすぐです、アラン兄さん」
二番目の兄は、四つん這いの男の側に立って蔑むように続けた。
「ふん、グズめ。私ならこの程度、5分で終わる」
「ごめんなさい。僕にはこれが精一杯なんです、ブロンコ兄さん」
三兄弟の末っ子であるチャロスは、床に魔法陣を描いている。いや、正確には兄たちの指示のもとで描かされていた。
(5分で終わるんなら自分で描けよ)
そんな反論は心の中まで。
万が一にでも口にしたら、1秒後にはブロンコのつま先がチャロスの少しポッテリしたお腹にめり込んでいるだろう。
チャロスは物心がついた頃から二人の兄の奴隷だった。
それから十余年。青年となってもヒエラルキーに変化は見られない。
なぜならチャロスは“ノロマでグズな出来そこない”だから。
筋骨隆々で体力と腕力が自慢のアラン。
頭脳明晰で学校を主席で卒業したブロンコ。
だらしない身体とパッとしない頭脳のチャロス。
親でさえも、優秀な兄二人と、愚鈍な末っ子の扱いに差をつけた。
アランとブロンコにとって、チャロスは弟というよりも下僕のような存在だった。
いまチャロスが描かされている魔法陣は、ブロンコが古本屋で見つけたという『悪魔召喚の書』に載っていたものだ。
もちろん、アランもブロンコも本当に悪魔が召喚ができると思ってはいないはずだ。
ならば、どうしてわざわざこんなものを買ってきたのか。
答えは簡単だ。
『このクソ面倒な魔法陣をチャロスに描かせたら面白そうだ』
優秀な二人の兄にとって、チャロスは下僕でありオモチャのような存在だった。
なんとも性根の腐った兄を持ってしまったものだ、とチャロスは嘆く。
チャロスは力ではアランに勝てないし、頭ではブロンコに勝てない。
しかし、心が綺麗であるという一点だけは二人の比ではない、と自負していた。
それだけが、チャロスの自尊心を保っている唯一の支え。
神の教えにも『正しく生きる者が救われ、不誠実な者は身を滅ぼす』とある。
ならば、いつの日か神がチャロスを救ってくれるはずだ。そして、二人の兄には天罰が下るに違いない。
それだけが、チャロスの生きる希望だった。
そして希望の光は、いつも突然訪れる。
もちろん、チャロスにも。
「キサマの願いを叶えてやる」
チャロスが描いた魔法陣。
その中心にあたる場所で、片膝を立てて座っている悪魔らしき生物が発した言葉。
「なんだ? この気持ち悪いヤツは」
「ま、まさか……本物の悪魔? いやいや、そんなモノが本当にいるはずが……」
アランは悪魔を訝しげに見た。
ブロンコは悪魔を見ながら首を傾げた。
チャロスだけが、期待に満ちた眼差しで悪魔と視線を交わしていた。
『キサマの願いを叶えてやる』と、ヤツは確かにそう言った。
伝承でも悪魔は死後の魂と交換で願いを叶えてくれると聞く。
ついに訪れた救いの日。
手を差し伸べてくれたのが、神ではなく悪魔というのは想定外だが、この手を掴まない理由はない。
しかし、チャロスが願いを言う前にアランが一歩前へ出た。
「おい、お前。本当に願いを叶えられるのなら、この俺の願いを叶えてみろ! 俺の願いは世界だ。この世界の全てを俺のものにすることだ!! どうだ。叶えられるか!?」
なんと強欲な兄だろうか。チャロスは目を剝いた。こんな大それたことを堂々と言える神経が恐ろしい。
もしも、このまま兄の願いを叶えられてしまっては堪らない。チャロスはすがるような目線を悪魔へと送る。
だが、杞憂だった。
「……断る」
「なんだと!? やっぱり願いを叶えるなんてデマカセなのだな!」
「今のキサマの魂には、願いを叶えるだけの価値が無い。五十年経ったら出直してこい」
「……なっ!? 価値が、ないだとおおお!!」
激昂したアランが悪魔へと殴りかかる。
しかし、アラン自慢の拳が相手に届くことはなかった。
魔法陣を囲む見えない壁のようなものに弾かれ、アランが気絶してしまったからだ。
「じゃ、じゃあ。私のねが――」
「キサマもダメだ。さっきの男ほどではないが、願いを叶えてやるほどの価値はない。願いを叶えてやれるのは、こっちの醜い男だけだ」
ブロンコの願いもすげなく却下した悪魔は、静かにチャロスを指差した。
(そうだ。魂の価値が最も高いのは、この僕に決まっている!)
恐ろしい形相で睨んでくるブロンコの視線を感じながら、チャロスはぎゅっと拳を握った。信じて耐えてきた甲斐があったというものだ。
「僕の願いは……、正しく生きる者に幸運を、不誠実な者には罰を求めます」
「……はぁ。正しく生きる者とは誰のことだ?」
「僕のことです」
「……では、不誠実な者とは誰のことだ?」
「ここにいる二人の兄のことです」
「つまりキサマの願いは、自身の幸運と、兄たちの不幸ということだな」
悪魔から具体的な願いを確認され、チャロスは神妙に頷いた。
「良いだろう。対価はキサマが死んだ後の魂だ。死後に天国へ行くことはなく、悪魔の支配を受けることになる。全ては悪魔の思うがままだ。契約に合意したならば二度頷け」
このまま生きていても下僕のような生活が続くのだ。
悪魔の手下になったとして、今とどれほどの差があるものか。
ならば、残りの人生を幸運続きで楽しめる方が得に決まっている。
チャロスは迷うことなく二度、しっかりと頷いた。
「契約成立だ」
悪魔はまさに悪魔らしい歪な笑みを浮かべた。
その瞬間、黒い渦のような闇が兄弟を包み込んだ。
それから。
アランとブロンコには、とめどなく不幸が続くようになり、その反動のようにチャロスには幸運が舞い込んできた。
しかし2か月後。
チャロスは突然の病でこの世を去る。
魂を捧げた見返りとしては、実に短い『我が世の春』であった。
【Aパート 了】
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