ソルティドッグ(Bパート)
「ありがとう。これ、今晩の謝礼よ」
カオリがスーツ姿の男に茶封筒を渡す。
中にはきっちり1万円が入っている。
「へへっ。毎度どうも。いやあ、たったの30分お酒に付き合うだけで1万円かぁ。こんなバイトがもっとあれば良いのになぁ」
茶封筒の中身を確認し、そのままポケットに突っ込んだ男が上機嫌に言う。
「事前に伝えたとおり、このことは誰にも口外してはだめよ。口止め料込みでその金額なんだから」
カオリがキッと睨みつけると、男は怖い怖いとおどけてみせた。
役者崩れで安く雇えたから使ったが、どうにも口が軽そうで困る。
「しっかし、あそこまでしなくても。音信不通になって自然消滅させりゃ良かったんじゃねぇの?」
「あんたには関係のないことよ」
カオリの突き放した言い方に、男はへぇへぇとふてくされた。
そんな別れ方ではダメなのだ。
ケイゴがカオリに、欠片ほどの未練も残さないようにしなくてはならなかった。
万が一にでも、カオリのことを追いかけてきたり、カオリのことを引きずってしまうようなことがあってはならない。
ケイゴには未来がある。早く前を向いて進んで欲しい。
そのためにこんな男を雇ってまで、エリート会社員と結婚して海外へ移住するなんて大嘘をついたのだから。
「それじゃ。私は行くわ」
「ロサンゼルスに?」
「……それも悪くないわね」
「マジで!? 俺も行きてぇっ! 沖縄でもいいから行きてぇっ!」
ケイゴと二度と会うことの無い場所なら、どこでもよかった。
ロサンゼルスでも、沖縄でも。
カオリはケイゴのことを愛していたし、今も愛している。
だからこそ、別れなくてはならない。
今から20年前。カオリの両親は離婚した。
当時5歳だったカオリは母に引き取られ、以来、母ひとり、子ひとりの生活。
つい先日、実家に帰ったカオリは母との雑談でケイゴのことを話した。
彼氏ができて幸せだ。先のことはわからないけど彼と結婚するかもしれない。
そんな惚気を母に聞かせたのだ。
ニコニコと聞いていた母の態度が変わったのは、ケイゴのフルネームを伝えたあたりからだ。写真を見て頭を抱えたかと思うと、地元を確認して顔色が真っ青になった。
そして一言、「別れなさい」と呟いた。
はじめは反発したカオリも、母から聞かされた過去に言葉を失った。
自分の父が、ケイゴの母を殺していた。
20年前のある日。父が乗ったトラックが乗用車にぶつかった。
信号は父の方が赤、原因は居眠りだったそうだ。
会社の働かせ方にも問題があったのかもしれないが、そんなことはぶつけられた方の知ったことではない。
乗用車に乗っていた若い女性は即死。
父は業務上過失致死傷で逮捕、起訴されて有罪となった。
それが両親の離婚の原因。
そして、乗用車に乗っていて亡くなった女性こそがケイゴの母親だった。
カオリは加害者家族で、ケイゴは被害者遺族。
ケイゴは当時まだ1、2歳。
そんな幼子から母親を奪ってしまった。
知ってしまっては、カオリはもうケイゴと一緒にいることは出来なかった。
加害者家族と被害者遺族の間には、絶対に埋めることのできない壁がある。
ケイゴがどう思うかではなく、ケイゴの家族が、親戚が、周囲の人々が、絶対にカオリのことを許してはくれない。
カオリ自身もきっと、ケイゴとその家族に負い目を感じて生き続けることになる。
だから……今夜、ケイゴと別れた。
ケイゴのことを考えると涙が湧き出してくる。
昨夜、あれほど泣いたハズなのに。
カオリは抵抗するように夜空を仰ぐ。
それでも鼻を抜けて、口の中へとなだれ込んでくる涙は、昨日よりしょっぱく感じた。
【Bパート 了】
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