一番
「な、に……? 何なの……?」
「はい、どうぞ。きっと家族を殺した時より簡単だよ。」
彼女が立ち上がって、ライターを押し付けられて。そのまま手の内を眺める。理解が追い付かなかった。
私が、彼女を殺す? 結華ちゃんを?
あり得ない。あり得るはずが無い。私の意思に反して、かたかたと震える手はライターを手放してはくれなかった。
私が戸惑っている間に、彼女はベンチの脇に置いていたポリタンクの蓋を開け、中身を頭から思い切り被った。
「ずっと思ってたんだ。陽葵さんの家族を越えるには、どうすれば良いのかって。ねえ、言ったよね。私が陽葵さんの一番を目指してるって。」
恐怖だ。私は今、恐怖を抱いている。
彼女との交際を辞めるとか、嫌われるとか、そう言った次元ではない。今、正に命の遣り取りをしている。彼女が生きるか死ぬか、その遣り取りを。震えは治まってはくれない。
『一番』。それは彼女にとって、きっと外せない言葉だった。
何がいけなかった? 何が、彼女を追い込んだ? 再びなんて、無かったはずなのに。
「今まで一緒に過ごしてきて、これから先も色んな事しようと思ってたけど。それじゃ駄目だって気付いたの。いつか絶対って思ってたけど、それじゃ駄目なんだ。今すぐにでも、陽葵さんの一番になりたい。ならなくちゃいけない。」
「この前、言ったでしょ……? 私は、結華ちゃんが、一番――」
「だったらッ! ……ねえ、だったら、なんで勝手に死のうとするの? この前の火事の時、自分だけ危ない所に行ったよね。なんで? どうして? 陽葵さん。私を大切だって言うなら、どうして私の大切な人を、殺そうとするの?」
弁解しようと思った。私にとって、彼女こそが一番なのだと。先日言った言葉に、嘘は無いのだと。
だけど彼女は拒絶した。その様相は、私を嘘吐きだと糾弾している気がした。いいや、きっと本当にそうなのだと思う。
「私には、家族を失う辛さが分からない。陽葵さんと違って、本当に失ってないから。……それでも。陽葵さんと、二度と会えなくなるかもしれない。そんなの、想像だってしたくない。」
最悪な事態に気が付いた。気が付いて、しまった。
私だ。私が、彼女を追い詰めた。
身近な誰かを、大切な人を失くす感覚を知っていたはずなのに。あの日の絶望を、私こそが分かっていたはずだったのに。その中に、誰かにとっての私を含めなかった。
本気だとか、覚悟だとか、その気になっていただけ。その実、自分本位なだけだった。心の中では軽んじていたんだ、私は。
だから今の、目の前の彼女が居る。
「ねえ。アンタの彼女を甘く見ないでよ。陽葵さん、本当は死にたいんでしょ。」
言う通りだ。私みたいな生きている価値の無い人間は、死んだ方が良い。それに何の間違いがあるのか。そう、思っていた。
死にたい。どれだけそれを願っただろう。だけど死のうと思っても、どうしてもお父さんがそれを阻む。だってこの命は、お父さんに守られたのだから。無駄になんて出来ない、せめて誰かを救うために。そんな思い上がった事を考えて。
「陽葵さんが一番大切なのは殺した家族でしょ? 私よりも大切だから、私の大切な人の命なんかどうでも良いんでしょ? だったら、私も殺されなくちゃ。そうしたら、陽葵さんは自分を殺せなくなるよね。私が死んでも、ずっと想い続けてくれるよね。」
ああ。馬鹿だ、私は。こんなに想われているのに。こんなに幸せな事は無いはずなのに。
なのに私はあの日、何をしていた?
見ず知らずの子供を探しに行った。誰にも頼らず一人で火災現場に戻ってどこに居るかも知れない子を探すなんて、無謀でしかない。もっと火が強ければ――私の家を焼き尽くした炎の様であれば、何も出来ずに死んでいたかもしれない。
落としたシュシュを探しに再び戻ろうとした。大切だから、宝物だから。そんな自分の気持ちを優先して。本当に大切なものが、すぐ傍にあったのに。
悲しみ、苦しみ、喪失感、無力感。昔の自分が感じた事を、彼女に味わわせようとしていた。良い事をしようとして優先順位を履き違え、本当は最低な事をしていた。
何を言い繕おうとも、何の言い訳にもならない。彼女の気持ちよりも、自分の価値観ばかりを優先していたんだ。彼女の大切なものを壊そうと、彼女との絆を捨てようとしたんだ。
彼女は、私の事を大切に想ってくれている。それを分かっているつもりで、何も分かっていなかった。ここまで言われないと分からないなんて、本当に馬鹿だ。
「嫌だ……っ! ごめん、ごめんなさい……。こんなの嫌だ、嫌だよぉ……。」
「なんで? 今更もう一人殺したって、大して変わらないよ。アンタみたいな人殺しでも叶えられる願いだよ。叶えてよ。アンタは自分の手を汚さずに家族を殺したんだよね。だったら、私が直接殺されればアンタの家族よりも上になれる! 私が一番だ! 私がアンタの一番になれるんだ! だから、ほら、さあ早く。殺してよ。」
手の中のライターは、地へと滑り落ちる。それを彼女は拾い上げ、私の手に握らせる。幼い子供に、使い方を教えるかの様に、その手を添えて。
「捨てちゃ駄目でしょ。」
「もう、分かったから、やめて……。」
「陽葵さんのそういう言葉、信用出来ない。知ってるんだよ、私。肝心な時にばっかり嘘吐くって。」
彼女の覚悟だとか、苦しみだとか。本当に私は、何も分かっていなかった。
どうすれば良い。彼女を止めるには、どうすれば。何をすれば、私は大切な人を殺さずに居られる。
――私を大切だって言うなら、どうして私の大切な人を、殺そうとするの?
一つの閃き。つい先程言われたばかりの言葉を振り返り、これだと思った。
今度こそ。今度こそは、間違えるわけにはいかない。
変わらなければいけない。ほんの少しだけ、なんて言わない。絶対に、はっきりと、確かに、変わらなければいけない。だから、私は。
今度こそ、覚悟を決めた。
結局私は、お父さんみたいにはなれない。本心から自分以外の誰かに対して命を懸けて、なんて出来ない。
結局私は、
自分と、彼女以外は、あまり大切に出来ない。
ごめんなさい。ごめんなさい、
最低の姉で、ごめんなさい。最悪の娘で、ごめんなさい。私は皆を蔑ろにする酷い人間です。
だけど。それでも、彼女の事だけは、諦めたくない。例えあなた達を捨ててでも。
「私の事、あなたの一番にしてくれませんか?」
「……は?」
それは酷く、ずるい言葉。彼女の言葉を利用した反抗。
一番だ。一番大切である彼女以外は、何も要らない。他の何をも切り捨てる覚悟。
唇は未だに震えている。体も、まだ。それでも、目の前の彼女へ向かって、ようやく持ち得た覚悟を紡いで放つ。
「死なないで、ください。殺させないで、ください。結華ちゃんを、失いたくない。これからも一緒に居たい、生きていきたい。他に何も要らない。あなただけが、欲しい。……だから。私のために、生きて、ください。」
さようなら、お父さん。さようなら、
さようなら、皆。私は、この人と生きていきたい。
許されないのは分かっています。どうか不幸者と、どうか薄情者と罵ってください。
だけど今、私は。それでも私は、彼女と一緒に居たい。今の私に一番必要なのは、彼女だから。
「あの時、私も同じ様に思ってたって、分かってますか。」
「うん……。」
「……陽葵さんの事、信じますからね。」
許されたのだろうか。私を抱き締める彼女を前に、そう思った。
濡れた服と肌が冷たい。それでも、どこか暖かさを感じていた。その温もりを逃すまいと、私は強く抱き締め返す。
思い返せば、私はずっと立ち止まっていたのかもしれない。高校に入学した時くらいに多少は立ち直ったつもりで居たけど、全くそんな事は無かった。前を向いているつもりで、後ろから目を背けていただけだった。
今度こそ、皆との別れを済ませた。
私は、生きる。生きていく。彼女と一緒に、生きていく。
「陽葵さん、ごめんなさい。こんな事して。それに、嘘も吐きました。」
「……えっ?」
「この見た目なんで、流石に灯油は売ってもらえなくて。これ、ただの水なんスよ。」
私は今日、ここに辿り着いてから。いいや、辿り着くまでの間も、様々な感情に振り回されていた。ようやく安堵したと言うのに、正に水を差された気分だ。
そんなの、匂いで気付かないはずが――泣いていた所為で、鼻が利かなくなっている。意識して触れてみれば油らしき
つまり、例えライターを着火しても、彼女に火が点く事は無かった? 最初から、彼女に死ぬつもりは無かった?
私が、どれだけ心配したと思って――
「馬鹿っ、馬鹿……っ!」
「めっちゃ寒いっス。暖めてください。」
そんな事を考えて、彼女も同じ様に心配していたのだと思った。だからそれ以上は言えず、おどける彼女をぎゅうと強く抱き締める。
今も感じている震えは私のものなのか、それとも彼女のものなのか。それは不安からか、安堵からか、それとも凍えそうな寒さからなのか。
暗い寒空の中、一番大切な命の温もりを感じていた。
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